02
前期中間テストを1週間後に控えたその日、副担任が変わった。
「田中先生が産休に入られたので、新しい副担任を紹介します」
担任の生駒先生の声の後、彼の隣に静かに立っていた女の人が頭を下げた。教室内はまだ数日前の球技大会の熱が冷めきっていない。そして疲労。だるんとたるんだ空気が、僅かにぴんと伸びたものの、歓迎ムードとまではいっていない。
「新しく副担任になります槙です。三月までよろしくお願いします」
後ろで一つにまとめたダークブラウンの髪が揺れ、槙と名乗ったその人は笑うこともなく僕らを一瞥した。銀フレームの眼鏡は、いかにも真面目でしっかりしていると主張しているみたいだった。
槙先生はそれ以上喋ることなく、朝のホームルームは終わりを告げた。第一印象を述べるとしたら、それはやっぱり真面目で固くて頭の良さそうな人、だ。新しい先生となれば、それなりに興味を示すであろうクラスメイト達も、見たままの人間であると踏んだように静かにしていた。
「ふぁ〜女の先生って噂は本当だったけど、あんなキツそうな先生とはな〜。田中ちゃんのままが良かったな」
「キツそうかな」
「キツそうだろ、どう見ても。つーか虎寝てんじゃん。いいのかよ、一応テスト前だぞ。しかもこのテストで赤点なんて取ったら修学旅行どうなんの?沖縄だよ?沖縄」
「欠点取ったら期限までに解消しないとダメで、出来なかったら修学旅行中毎晩先生と補習なんだってね」
「……え?」
席替えなどしていないのに勝手に僕の隣に居座る虎は、登校してきてからずっと眠っている。気持ち良さそうに肩を上下させている虎の頭を撫でながら湯井を見ると「蓮くん本気?え、嘘でしょ?」と、愕然とした様子で項垂れていた。
「ああ、どうしよう。俺赤点取らなかったことなんてないよ」
「再試とか課題とかで解消出来れば良いんだよ」
「え、無理無理無。再試五回目でお情けで合格もらってるんだよ、俺」
情けない彼の顔に笑いを漏らし、「もし取っちゃったら、協力するから」と溢す。一度も染めたことのない黒い髪から手を離し肩を揺らして。
「虎。一限始まるから起きて」
「……んん」
虎は授業寝てばかりいるけど、欠点を取ったことはない。もちろん、テスト前にきちんと遅れを挽回出来るよう勉強しているから、なのだけど。暗記するのは得意らしく覚えるものは丸暗記だ。数学もそう。ただ、公式と解き方は覚えるのに解くのが面倒だと言って、半分ほどで諦めてしまう。欠点を取らないであろうラインで。
今回もそうなるだろうと考えていた、矢先のことだった。
槙先生に呼び出された。彼女が来て二日後のこと。昼休みに突然呼び出され、相談室に足を運んだ。
「園村くん」
青のストライプシャツから覗く顔は、まだ見慣れてなどいないのに、何故かしっかりと覚えていた。
「聞きたいことがあるんだけど」
「…何ですか?」
キリッとした目に見つめられ、一体何を聞かれるんだろうと身構えてしまった。彼女と目を合わせるのも話すのも初めてで、頭に浮かぶのは疑問ばかり。
「愛敬くんとは、友達なのかしら」
それなのに、予想もしてなかったことを問われ、「え」と、間抜けな声が出てしまった。
「学校では一緒にいるし、登下校も一緒。仲が良いの?」
「あ、はい。幼馴染みですし」
「そう…じゃあ、愛敬くんが一方的に貴方に付きまとっているだけじゃないのね」
「はい?」
「だって変でしょう?貴方と愛嬌くんが普通に友人になるなんて」
「あの、どういう意味ですか」
「釣り合わないと言っているの、真面目な貴方と不真面目な愛嬌くんが」
彼女の言っている意味がわからなかった。変、とは一体どういうことなのか、頭をかしげていたかもしれない。
「周りと上手く接して、本当に誠実で頭の良い貴方が、彼みたいな人を友人に選ぶなんて、普通に考えて変よ」
その“不釣り合い”とは、虎に対して言っているのだろうか。
今までも今もそうだけど、誰もが振り返る容姿を持つ虎の隣に、平凡な自分が居ることに抵抗がある。慣れっこになってしまった部分もあるけれど、やっぱり周りの目を気にして胸が痛むことだってあるのだ。それを言われたのかと思ったが、違うらしい。
やる気がなくてお世辞にも真面目とは言えない虎が、僕の隣に居ることを、この人は否定しているのだ。けれど、虎だってきちんとすべきことはしている。たった一瞬見ただけで虎を否定した彼女に、嫌悪感を抱いた。自分だって、たった一瞬しか彼女と言葉を交わしていないのに。
「“幼馴染み”だから、仕方なく傍に置いているんでしょう」
「……」
「湯井くんもそう。不自然よ」
「何が言いたいんですか」
「まだ分からない?このままあんな人たちと群れていても貴方の為にはならないと言っているの。貴方は、貴重なほど優秀な人間なの。それを自覚しなさい。いつまでもあんな格の低い人間とつるまないで」
何…を、言っているんだ、この人は。迷いも躊躇いもなく。僕の大事なを批判した…はっきり言われ過ぎて、本当に驚いた。自分の聞き返す言葉に棘があるなと気づきながらも、変えることは出来なかった。
「…槙先生は、虎や湯井が、嫌いなんですか」
そんな幼稚な質問をしてしまうほどに、だ。
「笑わせないで。“嫌い”なんじゃないわ。貴方みたいな生徒はとても大事、彼らは“そうでない”だけ」
「…虎や湯井は、頭の悪い人間じゃありません」
「庇うの?友達思いなのね。頭が良い悪いの区別は貴方がつけるものじゃないわ」
「そうじゃありません。それに、例え貴方の言う通りだとしても、僕はそんな理由で人を判断しません」
そうだ、態度や口が悪くても誠実な人は居る。逆に、真面目で頭が良くても誠実じゃない人も居る。現に、彼女は頭の良い人間だからこそ、そうでない人を見下してそれを露にしているのだ。そんな人より、虎や湯井の方が何倍も何十倍も、僕は大事にしたいと思う。
「お願いだから、自分の道を外れないで」
「僕の道が先生には見えるんですか」
「見えるも何も、貴方はこのままちゃんと勉強して、良い大学に行って、ちゃんとした仕事に就くのよ」
「…すいません、先生。僕はもう進む大学を決めてます」
「だから言ってるのよ。全員の進路調査書は見せてもらったから」
「じゃあ僕の進む先を、侮辱してるってことですか」
初めての会話が、こんなに刺々しい言葉で成り立つなんて…想像もしなかった。沸々と込み上げてくる怒りに、久しぶりに何かに腹をたてた気がした。考えが逸脱した彼女を見据えながら、自分が呼び出された意味をもう一度よく考えてみた。けれど答えは出ず、正直怖いと思った彼女に背を向けて相談室を出た。
「槙先生の考えや言いたいことはよく分かりました。でも、それに従うつもりはありません。言いたいことがそれだけならもう戻ります。五限が始まるので」と、言い残して。
“先生”という存在に、初めての感情を抱いた。人の考えはそれぞれだけど、先生に考えを押し付けられたのは初めてで、僕の周りやこれからを否定されのだって初めてだった。
だから、自分のことで精一杯になっていた。教室に戻ってすぐ五限が始まり、そしてすぐ「授業中失礼します。愛敬くん、ちょっといいですか。荷物もまとめてください」そう言って入ってきた教師二人に、頭が混乱してしまった。
“荷物をまとめてついてきなさい”と、先生たちが入ってくるのは、良くないときだからだ。問題を起こしたか、家族の不幸か、どちらかだ。
「すいません、生駒先生。後程お話いたします」
引き摺られるように連れていかれた虎は、放課後になっても戻ってこなかった。
嫌な予感というよりはすごく大きな不安だった
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