01
「じゃぁ、バイト行ってくるね。八時には帰って…虎夜中までだから、僕が先に帰ってくるか」
幾瀬准との事があってから数日。
蓮は落ち着いて話をして、きちんと気持ちを告げていた。それでも幾瀬は相変わらずで、図書室にも、図書館にも顔を出しているらしい。俺には分からない、お互いの好きな作家の話もするし、お昼もたまに一緒に食べる。まあ、それは俺と、三人でだけど
というか、襲われかけて噛みつかれまでした相手と仲良くしようとする蓮は呆れる以上の人好しだ。正直さすがにありえないと思う。でも俺がやめろと引き止めて蓮を困らせる方が良いに決まっている、とも言えないのが悲しい。
もちろん、奴を許すことは出来ないし、俺は当然だけど、蓮だってそれに関しては同じはずだ。幾背が“今まで通り仲良くしてほしいです”なんて言うから悪いんだけど。蓮は律儀に奴の望みを叶えてやろうとして、結果的に、和解して“友達”という関係になりつつある。いや、蓮自身もそれを望んでいたのかもしれない。あの悲惨なことを悲惨なままで終わるのが嫌で。……とか、今の問題はそんなことじゃない。
「……は?明日は」
五月二十一日。
「明日…読み聞かせ会があるから休みだよ」
今日は二十日。
まさに明日、二十一日は蓮の誕生日だ。しかも今日は土曜日。明日は日曜日。
「あ、じゃあ行ってくるね。虎も、遅れないように出なよ」
白いシャツに紺色の薄いカーディガンを羽織った蓮は、そう言い残して俺の部屋を出ていった。“虎も遅れないように出ろ”か。残念ながら、今日は朝から昼過ぎまで喫茶店へ行き、今夜は喫茶店もバーも入れてない。バーには「今夜呼び出したら今後一切手伝わない」と留守電も入れておいた。
珈琲と煙草の匂いが染み付いた俺と、ほとんど入れ違いに出ていった蓮。いつもとか何ら変わりのない様子だった。
蓮が家から出ていく音を聞いて数時間。俺はベッドから起き上がって、蓮が丁寧に畳んでくれたパーカーをクローゼットから引っ張り出してTシャツの上に羽織った。
蓮は明日が何の日か、覚えていてないのだろうか。覚えていながら、俺が今夜も普通にバイトへ行くと思っているのだろうか。いや、もしかしたら思い出さないようにしているのかもしれない。
「…はぁ」
五月二十一日を迎える時、俺が蓮の隣にいなかったことはないのに。少なくとも小学校に上がってからは。そんな意味のため息を漏らし、駅前にあるケーキ屋へ向かった。それから本屋に寄って家に帰れば、六時という丁度いい時間だった。
「あ、お帰り」
「……焦げくさ」
「えっ!?」
今日は珍しく早く帰れると言っていた…本当のところは無理矢理帰ろうとしていたのかもしれない…佳乃がキッチンにいた。まともに料理なんて出来もしないのせに、だ。
「佳乃、仕事は」
「終わらせて帰って来たのよ」
「でも家の前秘書の人いるけど」
「やだ、もうそんな時間?」
佳乃は時計を見上げて、慌ててエプロンを脱いだ。
「ロールキャベツは煮込むだけにしてあるから、やっておいてね。あと、オーブンの中の焦げたグラタン何とかしといて」
早口に言葉を紡ぎながら、リビングのソファーに放り投げてあったジャケットを羽織る彼女。平日じゃ確実に会うことのない母親は。それでも毎朝朝食代わりのお弁当を作っておいてくれる。
「あ、それから!これ、渡しておいてね」
渡されたのは白い包みの、服らしきものが入った柔らかいものだった。
「うちから。明日ぱぱ休みだと思うけど、朝から社長の釣りに付き合うって嘆いてたから、たぶん今夜は帰ってこないよ。今日仕事終わりに社長のとこ行くって言ってたから。わたしもこのまま上海だから、蓮には会えないんだよねー」
バタバタと足音をたててリビングを出ていく後ろ姿に、もう少し静かにしてほしいと思う。もともと、佳乃は落ち着いた人なのだけど…蓮のお祝いを出来ないのが相当ショックみたいだ。今もこうして蓮に会えることを期待して無理矢理帰ってきたに違いない。
こんなに、慌てなきゃいけないほど無理矢理。
「あ、でも、明日は向こう二人ともお休みだから、出掛けるなら夜までに帰るのよ」
「はいはい」
「じゃあね、蓮のこと頼むよ。一人にしないでよ」
「分かった分かった」
「返事は一回。じゃ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
佳乃が出ていくと家の中は一瞬にして静まり返った。仕方なく、風呂に入ってからロールキャベツを煮込むため味を整えて火にかける。その間に臭いの根元である焦げたグラタンを処理し、残りのホワイトソースで新しいものを焼いた。
そして八時を少し過ぎた頃、玄関に備え付けたライトが人の気配を感知して電気を灯した。俺は慌てて玄関へ向かい、蓮を出迎えた。何でもない顔をして俺の家のドアを開けた蓮が、いつも以上に愛しく感じた。
「へっ、え?虎?」
「おかえり」
「あ、うん、ただいま、虎、バイトは?」
「今夜はない」
案の定驚いた様子の蓮は、リビングに用意された夕食を見てさらに目を大きくした。
「あ……」
ロールキャベツとグラタン。そしてシーザーサラダ。それを見て思い出したように漏れた声。
「そっか、今日…」
「先に風呂入る?」
「うんん。お腹すいたから、先に食べよう」
カーディガンを脱いだ蓮は、夕食を見つめたままソファーに腰掛けた。
「佳乃が会いたがってた」
「ふふっ、でもこれ、佳乃さんが作ったんでしょう?」
「ああ」
「忙しいのに…これだけで十分嬉しいよ」
いつものようにふわりと微笑む。けれど細められた目は何処か寂しげで。「いただきます」の声が、震えているような気さえした。
「おいし…」
「そう、佳乃に言っとく」
この日は毎年この晩御飯だ。初めて蓮を招いた時に絶賛されて以来、馬鹿の一つ覚えみたいに佳乃はこれを作る。考えてみれば佳乃はその日くらいしか晩御飯なんて作らない。去年までは佳乃もこの場にいたのだけど。
そんなことを考えたあとは、いつもと変わりなく話しかけてくれる蓮に相槌をうちながら食事を済ませた。
「……じゅう…な、な…」
「ん?」
風呂上がりの蓮は濡れた髪を拭きながら足を止めた。俺の部屋、佳乃が勝手に置いていった趣味の悪いキャラクターのスタンド式のカレンダーを見て。
「いいのかな、こんなに幸せで…」
ポツリと落ちた言葉は、テレビもついていない部屋に小さく響いた。
「僕─」
「蓮」
いつもはちゃんと乾かしてから出てくるくせに…髪はまだ、水滴が落ちるほど濡れていた。そんな頭に手をおいて、そっと引き寄せた。
「風呂長すぎ」
「……」
風呂にも、いつもは一時間も入らない。考え事でもしてたのだろうか。そんな言葉もかけられないで、濡れた額に唇を押し当てた。
「日にち、もう変わるぞ」
「あ…」
チッチッと秒針が動く。三本の針全てが“12”で止まる、その瞬間を待ち…
「蓮、誕生日おめでとう」
目を合わせてそう言って、触れるだけのキスを落とす。
「好きだよ」
「っ…とら……」
潤んだ瞳を隠すように、蓮は俺の肩口に額を押し付けてきた。
「蓮は、さおりさんの分も、幸せになるんだ」
「ぅ……」
“さおりさん”それは蓮の母親だ。いや、蓮を“産んだ”人。蓮を産んだその日に、彼女は、この世を去った。体の弱い人で、子供は産めないと言われていたらしい。けれど、彼女は自分の命と引き換えに蓮を産んだ。いや、命を懸けて蓮を守ったのだ。
「ありがとう、産まれてきてくれて」
蓮が小学生になる少し前、親父さんは再婚して、蓮に母親が出来た。蓮は母親というものを知らなかったし、それでもたぶん“お母さん”が出来たことは素直に嬉しかったと思う。
でも、中学生になった辺りから蓮は…“自分が産まれた所為で母さんは死んだ”そんな真実に罪悪感を抱くようになっていた。
「は…ぁ……う」
祝われるべきこの日を、蓮は笑って過ごせないのだ。
肩にしがみつく温かい手が、蓮の存在を主張しているみたいだった。温かくて、痛くて、でも嬉しい、そんな気持ちごと。涙に濡れて肌に張り付くTシャツも心地いいと思える。
「今年、も…虎が一番、だね…」
嗚咽を噛み殺した様な声が、俺に向けられた。ああ、そうか。そうだった…小学一年の時にはもう、俺は気づいてたんだ…きっと。
俺は誰よりも先に蓮に「おめでとう、大好き」と言いたくて、毎年無理矢理うちに泊めていたんだ。夜中まで起きてるなんて考えがなかったから、朝起きたらおはようより先に、それを言いたくて。
「あ、」
やっと顔を上げた蓮を見て、佳乃からのプレゼントを思い出した。ベッド下の収納スペースは、普段開けることがない。だからそこに俺から蓮へのプレゼントを仕舞っておき、蓮が来る前に佳乃からのものも突っ込んでおいた。
「これは佳乃と親父から」
「佳乃さんたちまで…去年もういいって言ったのに」
「もらっとけって。佳乃、俺にはくれないから。それと…これは俺から」
「ありがとう…開けてもいい?」
「んん」
本当のことを言えば、この日の為にバーの手伝いを始めた。もちろん、店長の為もあるけれど…掛け持ちができるならそれにこしたことはないな、と。
小さめの白い紙袋。中には二つのプレゼント。ああ、親子揃って同じ色の包装だ、そう気づいて呆れてしまった。
「っ、これ…え、虎?これ、くれるの?」
厚みのない白い箱の中は薄い数枚の紙だ。
「え、だって…」
驚きに見開かれた目は、眼球が落ちるんじゃないかと思うほど大きかった。蓮のこんな間抜けな顔、滅多に見られないなと思って口元が緩んだ。
「…一緒に、行こ」
蓮に渡したのはチケットだ。正確には、二ヶ月後に静岡で催される夏フェスのチケットと、そこまで行く新幹線の往復チケット。そしてそこから近い場所にあるホテルの名前を書いたメモ。こんなものプレゼントにはならないかもしれないけど、誕生日でもなかったら蓮は絶対受け取らないだろうから。自分の分は払うと、全額俺に押し付けてくるだろうから。
来年の夏休みは受験勉強で忙しいだろうから、どうしても今年の夏行きたかったのだ。もっとも、受験勉強で忙しくなるのは蓮だけだろうけど。
「っ、チケットも新幹線もホテルも、虎が取ってくれたの?」
「ああ」
「調べて、お金も全部…?」
「ああ」
行きたがっていた場所。俺だって蓮となら行きたい。
「……っ!」
それに、蓮と二人きりで旅行なんて行ったことがなくて。この先何度かあったとしても、“初めて”はこの一回しかないのだから。どうしても俺からプレゼントしたかった。蓮に、喜んで欲しかった。
とんっと再び俺の肩に顔を押し付けてきた蓮は、小さな声で、でもはっきりと俺に聞こえる声で、「ありがとう。行くよ、もちろん」と言って抱き締めてくれた。
「楽しみだね、夏休み」
「……うん」
抱き締め返したら、蓮の腕にも力が入った。もうひとつのプレゼントは夕方買ってきた本だ。俺には何が良くて面白いのか分からないからその場で直感で選んだものだけど。これはここ何年もおまけで渡している。
「うん。あと、ケーキも買ってきた」
「チーズケーキ?」
「ああ。明日の朝、食べよう」
朝になったらさおりさんのお墓参りに行って、時間があったら少し寄り道をして帰ろう。さおりさんに対して感謝の気持ちを抱いている俺を、今年はちゃんと伝えよう。出会わせてくれて、ありがとうと。
(本当は、首輪でも指輪でも腕輪でも良かった。俺に繋ぎ止めておくそれを蓮にあげたかった。でもそうしなかったのは、やっぱり蓮の喜ぶ顔が見たかったからで。俺ひとりの自己満足ではなく、お互いの顔が綻んだら良いとも思った)
それから蓮に、俺と出会ってくれてありがとうと。
(ふわりふわりと足元が揺れ)
(温かくて、幸せで)
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