03
『ガラッ』
「あらー虎くん。どうしたの」
艶めいた声と共に姿を見せたのは見慣れた養護教諭。黒いワンピースに羽織った白衣が揺れ、その女は俺ににこりと微笑んだ。
「少し寝る」
「なーんだ、仮眠に来ただけ?」
「先生、虎くんが欲しいなあ」
女らしい華奢な手が、俺にのびてきて胸を撫でた。ネクタイを緩めながら、誘うように見上げて。長いまつげに柔らかな体、赤く塗れた唇、どこをとっても“女らしい”のに、少しも興奮しない。蓮の、涙に濡れて束になった睫毛や、掠れた甘い声を知ってしまったら、もうダメだった。
「アンタのこと見ないし、キスもしない。名前も呼ばないし声も聞かない、喘いだら首を絞めるし、それでもかまわないなら」
「何よ、いつも通りの事言わないで」
首筋に唇を押さえつけられ、俺はベッドへと倒れた。横になった自分にまたがったその人は、35という年齢よりはるかに若く見えるし、美しい、のだろう。でも…やっぱり欲情はしない。
蓮、お前じゃないと…
「保健室?」
「ああ、もう半分寝ながら行ったぞ」
「そう、わかった。ありがとう」
蓮じゃないと満たされない。
「んっ、あ……んん」
「黙れ。声出すな」
指にまとわりつく彼女の粘液。
気持ち悪くて布団に擦り付けると「ね、も…頂戴……いい?」と、自身でスカートを大胆に捲りあげた。
「…おい。そのまま入れんな」
「いやね、分かってるわよ」
「生で入れんな。きたねえ」
俺に背を向け、腰を下ろし始めた彼女の肩をつかみ、自分から引き剥がす。俺は蓮以外正面から抱かない。萎えるから。
びくりと跳ねた肩から手を離し、露になっていた自分のものをパンツへと収める。そのままズボンのチャックも上げ、緩められていたベルトも絞め直す。
「え、ちょっと!虎くん」
「萎えた」
「は!?」
もともと、ヤりたかった訳じゃない。し、充分に勃起もしていない。眠りたかっただけ。それなのに…余計に疲れた。思わず盛れたため息を、まだベッドに座る教師に落とし、そこから離れた。名前を呼ばれたけれど聞こえないフリでピシャリとドアを閉めれば、それは簡単に聞こえなくなった。また漏れたため息。そして、同時に息をのむ声。
「っ、…」
「っ蓮」
目の前に、俺と絡まった視線に気まずそうに俯く蓮がいた。
「……体調悪いのか」
「あ、ううん。虎を…探してて……保健室行ったって、聞いたから…」
「ああ、そう」
ものすごく気まずそうな蓮に、まさか話が聞こえていたのでは…と不安になった。いや、そんなわけないか、なんて、勝手に考えていた俺へと、再び蓮の視線が向けられた。そして今度は、頬が赤くなる。
「蓮?」
「ごめっ!…あの、虎、首…」
言われて、そっと自分の首へと手をやれば、あの女の口紅が指に絡まった。僅かにぬるりと感覚を残して、そこについていたのだ。
「ボタンも、かいちがえてる」
ああ、変な勘違いをしている。いや、勘違いでもないけれど…
「……直して」
「へっ?あ、うん」
顔を真っ赤にして、僅かに震える手が、胸元をくすぐる。それに思わず、彼を抱き寄せてしまった。
「っ虎?」
驚きのあと、不思議そうに腕の中で動いた蓮に、キスを一つ落とす。
「虎っ、こんなところで…」
顔を真っ赤にして俺の腕から逃れた蓮をまたすぐに捕まえて「じゃあ、場所変える」と、蓮にだけ聞こえる声で呟き、腕を引く。
やっぱり、蓮にしか欲情しない。
「蓮」
「や、だめ、だって…」
蓮以外にキスはしない。
蓮以外を正面から抱かない。
蓮以外はいらない。
潤んだ瞳に、どちらのものとも分からない唾液で濡れた唇に、敏感に反応する耳に、綺麗な首筋に、キスを落とすだけ。がくがくと力の抜けていく蓮は、俺の肩に手をおいて必死にしがみついた。
「と、ら…?」
それが可愛くて、愛しくて、大事にしたくて、でも、壊したくて…そんな葛藤から逃れるために、強く、蓮を抱き締める。
「好きだ」
こうやって自分から、体を縛り付けておきながら、それだけの関係に胸が痛む。それはもう、あとには引けないことも分かっているから。
「虎」
こうして、抱き締め返されることだけが唯一の救いだ。蓮の優しさが痛いけれど、それでも、蓮の匂いに包まれるその瞬間がどうしようもなく好きなのだ。
蓮、欲しい
蓮の心が、欲しい
でも、知っているのだ。蓮からの応答はない。一方通行の回線だ、と。
だからせめて、繋ぎ止めていさせて
(俺だけを求めて泣けばいい)
(涙はこの手で綺麗に拭うから)
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