05
“愛嬌先輩へ。今日の放課後、屋上前で待ってます”
「虎、行かなくていいの」
そんなラブレター擬きなものを下駄箱で見つけたのは、今まさに帰るために靴を取ろうとした時だった。何も考えず手にしてしまい、後悔したのは言うまでもない。当然のように一緒にいた蓮がそれに気づき、玄関の扉とは反対方向を指差した。
「…めんどくさい」
「でも行かないと、待ってるかもしれないよ」
これは俗に言う“告白の呼び出し”なのだろうか。例に倣ってパステルカラーの便箋に可愛らしい文字。けれど、何処と無く感じるこの違和感はなんだ。
「…放課後に呼び出す方が悪い」
「ほら、待ってるから行ってきなよ」
「…」
俺の鞄を掴み、何でもないように蓮は微笑んだ。少しくらい嫌そうな顔をしてくれてもいいのにと思うのは、きっと立場が逆になったとき不機嫌になる自分が目に見えるからだろう。
「と─」
嫉妬じゃない。独占欲だ。俺以外誰も蓮に触れさせたくない、蓮も、自分以外俺に触れられたくないと思ってほしい、そんな。
「っ、」
痛々しいたんこぶに触れないようにその頭を撫で、一瞬重ねただけの唇を離した。他に生徒の姿はなかったけれど、学校でこういうことはするなと言われるだろうと気づいて、一歩後退した。
「行ってくる」
「ぁ、いってらっしゃ…い」
ほんのりと赤くなった頬を隠すように手を顔に当てた蓮。その体に背を向けて、屋上へと続く階段を上った。面倒だけど仕方ない。蓮が行けと言うのだから。俺一人で蓮がこの手紙の存在を知らなかったら、今こうして足を向かわせることなんてない。
屋上へ出る扉が見えたところで、足を止めた。そして、ため息をすることさえ面倒くさくなって、それ以上上へ行くことをやめた。
「屋上前、ね」
「開いてませんし、生憎雨ですからね」
普段見下ろされることが少ないからか、階段の上から俺を見下ろすその男に無性に苛ついた。もっとも、そこにいるのが他の誰であっても、それは変わらなかったと思うが。
「で」
「…まさか、愛の告白だとでも言って欲しいんですか」
その男…幾瀬准は俺を見下ろしたまま、蓮に見せる顔とは全く違う顔で言葉を続けた。
「愛嬌先輩。僕は貴方が嫌いです。でも、驚いたことが一つ。…先輩、本当に蓮さんの、“忠犬”なんですね」
忠犬…か。
「マーキング」
「は?」
「先輩、蓮さんの体に付けないんですね。見えないところはどうか知りませんけど…少なくとも首元にはなかった。何も考えずマーキングする、馬鹿犬じゃないってことには、驚きました」
キスマークのことだ。そうだ、昨日蓮の首にあんな忌々しいものを付けたのは、この男。俺一人を呼び出す為だけにあんなものを仕込んで、こうして嫌味を言うのか。
「じゃあ…お前は躾のなってない馬鹿犬だな」
「は?」
「自覚ないのか?お前は、俺から蓮を奪うって言った。でも、何かしたら殺すって言っただろ」
「物騒なこと言わないでください。貴方と一緒にされるのも嫌ですし、僕は貴方とは違う。犬なんかじゃない」
俺は別に、犬でもいいけれど、と言いそうになった。蓮は動物全般なんでも好きだし、どちらかといえば犬派だし、なんて…それは建前で。本当のことを言えば、俺が蓮の隣に居られるのなら、触れられるのなら、なんだっていいのだ。
「僕、前にも言いましたよね。待ての出来ない犬なんてみっともないって。忠犬であるだけが取り柄なら従順でないとって」
「だから、何も言ってないだろ」
「だから、ムカつくんです」
答えになってないと言おうとすれば、それを遮るように幾瀬がゆっくりと階段を下りてきた。蓮と同じような背丈で、同じようにしっかりと制服を着こなす姿は、確かに良く似ていた。
「蓮さんに相応しいのは僕だ」
そして、何日か前には無かったものが、手を伸ばせば届く距離まで近づいたこととで見えてしまった。
「無理矢理蓮さんを手に入れたんでしょう?あの人の優しさを利用して、心も体も、貴方が支配した。違いますか?」
「さあ、蓮に聞いた方が確かなんじゃないのか」
「……本当に、ムカつく」
「お前、蓮が好きなのか」
「何ですか今さら」
「いや、好きでそこまでしてるのかと思って」
いいながら、俺は幾瀬の頬を指差した。蓮も同じところに、ほくろがある。幾瀬のそれが偽物だってことは、言うまでもない。好きな人とと同じ顔になりたい、とでも思っているのだろうか。
「変ですか?僕は好きな人と同じ世界を見たい。同じ世界に住みたい。蓮さんが好きなものは好きになる、嫌いなものは嫌いになる。靴も鞄も、同じものがいい。髪型も髪色も、全部一緒がいい。蓮さんと一つになりたい。ただ、蓮さんの“好きな人”だけは好きになれない」
形の良い目が、いやらしく細められた。
「すごい執着心だって思いましたか?でも残念ながらこれは執着じゃない。運命、なんですよ」
「運命、ね」
「馬鹿にしたければしてくださって結構です。貴方は今みたいに、蓮さんの隣でそこに居られるのは自分だけだと、胡座をかいていて下さい。僕に、蹴落とされるまで」
今まで、人より少し大きなこの体と目付きの悪さで柄の悪い奴に絡まれることはよくあった。その度に嫌味や罵倒を受けたけど、こんな風に見下す以上の言葉をかけられたことはない。そう、これは喧嘩の為のものじゃないからだ。
「教えてあげましょうか、どうしてこんなことが言えるのか。…僕は蓮さんに恋い焦がれて、だけど手を伸ばすことなんて出来なかった。きっと一生、触れることなんて出来ないと思ってた」
にゅっと、幾瀬の手が俺の首へ伸びてきた。
「でも、蓮さんから微笑みかけてくれた。僕を、見つけてくれたんです。このまま僕といれば必ず振り向いてくれる。だって神様は僕を見捨てなかった。僕を選んだんです」
否定の言葉を述べる前に、首を掴む幾瀬の手に力が込められた。お前は喋るなと言うように、恐ろしいほどの力で。
「欲しいものは何がなんでも手にいれます。今までだってそうしてきたんだ、それはこれからも、変わらない」
正直驚いた。まさかここまで、頭のいかれた人間だとは思わなかったから。最初から何となく感じていた彼が持つ蓮への、異様な執着は勘違いでも気のせいでもなく。けれどここまでとは思わなかったのだ。
「先輩、捨てられて野良犬になったら僕が責任もって拾って、保健所へ、お届けしますよ」
「…どうして蓮なんだ」
首は絞められたまま。思いの外声は掠れなかった。
「……それを、貴方が聞くんですか?分かりますよね、貴方も好きなら。優しくて、誠実で、聡明で誰からも信頼されて、それでいて鼻に掛けることのない態度。あれ程綺麗に微笑む人を、僕は他に知りません。あんなに心臓が止まるんじゃないかって程、強烈な衝撃」
ゆるりと力が抜け、その手は俺から離れた。完全に、イッた目をしている。
「じゃあ、さようなら、先輩。蓮さん待たせているんでしょう?早く行ってあげてください」
「……もう一度言う。蓮に何かしたら、本気で殺す」
「っ、」
顔を寄せて、その耳元で囁けば、幾瀬が一瞬息をのむのが分かった。ひゅっと吸われた空気が、窮屈そうに消えた。いかれた考えがそんな一言でどうにかなるとは思っていない。それでも、黙り込ませたいと思う怒りや意地、プライドがあり、そして俺が蓮に向ける“愛してる”だけじゃ足りない想いを思い知らせたかった。
ゆっくりと階段を下りれば、下駄箱に背を預けこちらを見上げる蓮の姿があった。柔らかく微笑み、「おかえり。帰ろ」とだけ言って、俺の手をとってくれた。
(蓮に捨てられるのなら、)
(殺されても、死んでも、何でも良い)
子供染みた嫌みに“違う”と否定の言葉を
言い返すことが出来なかったのはきっと、
違うと言い切るだけの自信と確かな形がなかったからだ。
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