04
頭にソフトボールが当たった。
誰かの叫び声に振り向こうとして、遂行できず頭に重い衝撃が走った。あっ、と思ったらもう体は土の上に転がっていて、一瞬気持ちの良い青空が見えた。そこから記憶はぷつりと途切れ、最後に誰かの足音と僕を呼ぶ声が聞こえた。ああ、虎の声だ、なんて思ったのも束の間、気づいたときには保健室のベッドの上だった。一瞬の気絶だった。けれど、何か夢を見ていた気がする。嫌な夢ではなく、けれど、幸せな夢でもなかった。
目が覚めてから保健の先生に状況や怪我の具合を説明され、もう一度眠って、起きたら虎がいた。
「れーん!!!」
「っ、うわ、」
昼休みの教室に戻れば、いつもと変わらず賑やかで…僕の帰還に気づいた湯井が飛び付いてきた。すぐに虎の手によって剥がされたけど、話を聞けば彼の取り損ねたボールが僕の頭に直撃したらしかった。
「ほんとごめんな」
「大丈夫だよ。大したことないから」
「れーんー…」
触られれば痛いけど、それ以外は特に問題ない。残りの授業をすべて受け、放課後一応保健室に顔を出して、それから虎と校門を出た。そして出たところで、 「蓮さん!」と声を掛けてくれたのは幾瀬くんだった。
「幾瀬くん」
「大丈夫ですか、怪我」
「え…あ、うん。大丈夫だよ」
校門に背を預けて立っていた彼はパタパタと駆け寄り、僕の目の前で止まった。
「保健室行ったら、蓮さん頭に包帯巻いて寝てたから…驚きました」
「あ、そうだったの?」
全然知らなかったと付け足せば、虎の小さな舌打ちが聞こえた。ああ、早く帰りたいんだろうかと思い、その横顔を見た。相変わらず、眉間にシワをよせた険しい表情が、そこにはあった。
「心配してくれてありがとう。…じゃあ、また」
「あ、あの…!蓮さん」
別れの言葉を告げ、一歩踏み出したところ。
幾瀬くんの手が、僕の腕を掴んだ。
「ん?」
「…えっと…明日、お昼一緒して、欲しい…です」
「お昼?うん、喜んで」
自分とほぼ同じ高さにある目が、きゅっと細められた。「ありがとうございます。じゃあ明日…中庭で待ってますね。楽しみにしてます」そう言って、その目は更に形よく細くなった。柔らかい微笑みだと感じた反面、なんとなく違和感を覚えた。僕はその正体に気づくことができないまま、頭を下げて遠ざかる背中を見送った。
「……」
なんだろう、この違和感は…
「…蓮」
自然な笑みに隠された、作り物の様な瞳。そう、まるで…
「蓮」
「っ、あ、どうしたの?」
「帰ろ」
ぼんやりと頭の中を支配していた思考が途切れ、同時に虎の手が僕の手を捕まえた。ひんやりとした、でも大きくて心が暖かくなるような手だ。校門を出てすぐの場所、まだ周りには数人の生徒がいた。けれどそんなこと気にする様子もなく、虎は繋いだ手に力を込めた。
「虎?」
その日は、帰ってすぐお互いにバイトで、次の日の朝まで顔を合わせることはなかった。様子が変だと思いつつも、翌日の朝にはいつも通りで、そんなことも忘れてしまっていた。
『キーンコーン』
「くぁ〜腹減ったあ…あれ、蓮どっか行くの?」
「あ、うん。幾瀬くん」
「まーた?好かれてんなあ」
昼休み、湯井は眠たそうにそう言ってから、気をつけてと手を振ってくれた。
「あ、ついでにその痛々しい頭もな」
「もう大丈夫だよ」
教室を出る間際、虎も僕に一言“気を付けろ”と言った。何が、とは言わなかった。昨日は包帯でぐるぐる巻きにされていた頭も、今日は自分の手で保冷剤を当てて冷やしているだけ。もう大丈夫だ。僕は笑いながら手を振り返し、中庭へと足を向かわせた。
けれど中庭へ出る前に、待ち合わせた本人を見つけた。
「あ、蓮さん」
「あれ、幾瀬くん。どうしたの?」
「雨降りそうなんです」
「……あ、ほんとだね」
廊下の窓から見上げた空は、確かに怪しい雲を浮かべていた。仕方がないので鉢合わせた場所から一番近い空き教室へ入ることにした。ほとんど使われることのない、カーテンも閉め切られたままの、狭く埃っぽい被服準備室。
電気をつけるほど暗くはないからと、そのまま設置されている長机に腰かけた。周りには衣装ケースに入れられた作品や、丁寧に巻いてありながら無造作に棚に押し込まれた布で溢れていた。そこで、ああ布の日焼けを避けるためにカーテンが閉められているのかと納得した。
「頭、大丈夫ですか?」
「ふふ、大丈夫だよ、ありがとう」
「っ、そう、ですか…良かったです」
今日半日で、既に何回もされた質問だった。滅多にこんな怪我をしないから。みんなに心配をかけるのは申し訳ないと思いつつ、なんだかくすぐったいなと感じてしまった。
「、どうかした?」
「あ、いえ……」
逸らされた視線は彼の手元へ、そしてゆっくり、僕へと戻ってきた。
「……あの、蓮…さん」
「ん?」
「…好き、です…」
「……え?」
「あ、違くて…その、蓮さんの、笑った顔が…」
一瞬自分の中でピンと張った何かが、一気に緩むのを感じた。
「すごい、素敵だなって…思って」
「…ありがとう」
自然に漏れた笑みを彼に向け、食べかけのお弁当へ手を伸ばした。笑った顔が好きだなんて言われて、素直に嬉しかった。嬉しかったけれど、それは警戒すべき言葉だったのかもしれないと、後悔することになるのは、すぐ後の事。
「っ、」
少し動けば肩が触れてしまう程近くに座っていた彼。その彼の腕が、僕の肩をしっかりと掴み、無理やり引き寄せた。
「幾瀬、くん?」
強引に抱き締められてしまい、けれど反応もない。僕の肩口に埋められた幾瀬くんの顔は見えなくて、ただ頬に触れる彼の髪がくすぐったかった。
「……まり…」
「え、なに?」
「……あんまり、そうやって…無防備に、笑わないで下さい」
“無防備”その言葉、昨日も聞いた気がする。
そう思い付くより先に、僕を抱き締める腕に力が込められて、身動き出来なくなってしまった。
「…たは……のだ」
「…なに?幾瀬くん……っ、」
「ご、ごめんなさい!!」
我にかえった幾瀬くんは、勢いよく僕の体を引き離した。
「すいません、気に…しないで下さい」
間近で見た彼の顔、僕と同じ場所…右の頬骨辺りに二つと唇の左端に小さなものが一つと下睫毛の生え際に一つ…ほくろがあることに気づいた。同じような所にほくろがあるんだ、なんて呑気なことを思った。もちろんそれが天然のほくろなのか、なんて疑うことはなかった。“気をつけろ”その言葉の意味さえ、深く考えることもしないで。
「あの、蓮さん…明日も、ここでお昼食べませんか」
その日夕から方降り始めた雨は
降ったりやんだりを繰り返して
翌日の夜まで曖昧な雨を降らせた
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