03
「あー!蓮、危ない!!」
「え?」
『ドッ』
校庭に響いた、クラスメイトの悲鳴と鈍い衝突音。
ゆらりと揺れたその体は、スローモーションで土の上へと身を投げ出した。太陽の光を浴びて僅かに茶色く光る髪と見慣れた体。一瞬の沈黙のあと、頭にソフトボールが直撃して倒れたのが蓮であることに気づきすぐに駆け寄った。
「蓮!?」
五月の後半に催される球技大会の練習中の事だった。
「園村!」
ワンテンポ遅れて俺の隣に来た体育教師。
同じように呼び掛けても、蓮からの返事はない。気を失っていたのだ。それが一限。蓮はそのまま保健室に運ばれ、軽い脳震盪だと言われそのまま絶対安静でベッドに隔離された。休み時間ごとに様子を見に行ったものの、蓮は目を覚まさないまま。
「どうしよ、俺がちゃんとキャッチしてれば…」
俺に殺されるんじゃないかと怯えた湯井を無視して、四限の終わりのチャイムがなる直前に教室を飛び出した。さすがにもう起きているだろう。いまだに気絶しているのなら、さっさと病院にでも連れてってもらわなければ困る。
そんなことを思いながら保健室に雪崩れ込めば「静かにしなさい」と眉間に皺を寄せた養護教諭が俺を見た。この春で入れ替わった新しい保健室の主だ。かんけいを持ってしまったあの若い養護教諭は、もうこの学校には居ない。
「蓮は」
「一度目を覚まして、今は眠ってる」
安堵の息が漏れ、蓮の横たわるベッドを囲むカーテンを開けた。その僅かな音と空気の揺れに反応するように、蓮の睫毛が震えた。
「…蓮?」
なるべく小さな声で、そう意識して出した声は聞き取ることが難しいくらい掠れてしまった。
「……と、ら…?」
緩やかに覚醒した蓮は俺を呼んで、姿を探すように視線を天井からカーテンへ、そしてやっと俺き向けた。その瞬間、足は勝手にベッドへと吸い寄せられるように動き、ぼんやりと俺を見上げる彼の頬に触れた。
「大丈夫か?」
「…ん、僕、…気絶してたんだね」
ゆっくりと体を起こす蓮の肩と背中を支えてやれば、「ありがとう」なんて言葉が返ってきた。
「ここまで運んでくれて、休み時間も、来て…くれたんだよね」
弱々しく微笑む彼に、さっき一度目を覚ましたと聞いたことを思い出す。おそらくその時に彼女が蓮に伝えたのだろう。相変わらず綺麗に微笑む蓮に、一瞬息をのんでから傍らに置いておいた制服を差し出す。
「着替え」
「ん、ありがとう」
大人しく受け取った蓮は、ださい紺色のジャージのチャックをゆっくりと下ろした。せめてこのジャージくらい脱がせて寝かせてやれば良かったと思ったのも束の間、俺の目は蓮の首筋に釘付けになる。
「…虎?」
「……」
「あの…そんな見られると、脱ぎ難い…んだけど」
毎回丁寧に洗濯されているであろう、真っ白の体操着。半袖から露になる腕、その先の手首には幼馴染みの麗に貰ったという臙脂色の細いミサンガ。変なところはない。…そう、首元以外。
首の付け根、鎖骨の少し上だ。無言でそこに指を滑らせれば、蓮は驚いたあと不思議そうに首を傾げた。触れても痛そうな素振りは見せない。倒れた際にできた傷ではない。
うっすらと赤い、歪な丸い痕。
「愛嬌くーん。先生ちょっと購買行ってくるから、少し留守番お願いしてもいいかしら」
カーテンの向こう、俺の背中に向けられた彼女の声に適当に返事をする間も、俺は蓮から目が離せなかった。
「何か、ついてる?」
ああ、これはあれか。気づいてしまった。
「無防備に、寝顔晒すな」
キスマーク。しかも俺が付けたものじゃない。いつも、俺が歯をたててしまう場所だからだ。甘噛み程度の力で噛みつく場所。残るとしたらそれは歯形だ。
「っ、ん……」
「はあ、」
「ん、あ…とら、」
今までも、そこにキスマークを付けたことはない。ならば誰が?噛みつくようなキスを落としながら、頭の中はそんな疑問符で埋められていく。
蓮の意識がないところを狙われたというのか。でも休み時間ごとに俺はここに来ている。終業のチャイムから始業のチャイムの間、ずっと。いつそんなことが出来たというのだ。
唇を噛み、吸い、歯列をなぞり、舌を絡め、やっと離れた唇の間には銀色の糸が垂れていた。僅かに息の上がった蓮は、潤んだ瞳で俺を見上げた。それに耐えられる自信がなくなり、蓮の肩口へ顔を押し付けた。腰を曲げたその体勢は楽じゃなかったけれど、今は蓮を離したくない。
「っ!虎…や、ぁ」
歪な赤い痕に噛みつき、思い切り吸い上げた。こんな醜い痕、消えてしまえば良いと思いながら。自分のものへと塗り替える。
「ち、ゅ…」
小さな音をたてて口を離せば、真っ赤な…鮮血の染みのような痕が、蓮のそこに出来ていた。
「着替え、手伝ってやる」
「へ、え…ちょ…」
有無を言わさず体操着を脱がせ、枕へとゆっくり頭を落とす。何をされるか悟ったのか、蓮は頬を赤く染めて視線をそらすように目を伏せた。露になった胸元は、厚くはないものの、立派に男らしくしっかりとしている。そこに唇を押し宛ながらベッドに乗り上げ、顔の横に置かれた蓮の手を枕に縫い付ける。
「っ…」
最後にセックスしたのはいつだった…見下ろす蓮の体に、キスマークは一つも見当たらない。
「…、ぁ……う」
胸の突起を避け、その少し下に吸い付く。同じことを数ヵ所でしたあと、点々と残る赤い痕を目で追った。本当はつけたくない。つける意味もない。ただ…俺以外の人間が蓮にこうしたことを、その事実を、消したかった。
時折甘い息を漏らしていた蓮は、体の離れた俺を力なく見上げた。
「…着替え」
「あっ、んん」
そっと蓮を起こし、乱雑に置いた所為で少しシワが出来てしまったシャツを羽織らせ、ボタンを留める。いつも通り、第一ボタンまで。それから襟を立て、ネクタイを締め、紺色のニットベストを被らせて、襟を整えた。こうしてしまえば、もう蓮の体に隙はない。首元も見えない。
「昼、食べれるか」
「うん、食べる。…あ、手洗って、寝癖も直すね」
頭に巻かれた包帯からは無造作に髪がはみ出ていて、いつもの蓮らしくない。きっちりとした雰囲気のない頭のまま、ふらふらの体は保健室の一角にある洗面台で止まった。
身だしなみを整える彼の後ろ、俺は目に留まった保健室の利用者の名簿を掴んだ。今日の日付の一番上に、“二年一組園村蓮”の文字。一限、頭部打撲。蓮の字ではないから、養護教諭か誰かのものだろう。でも、そんなことはどうでもよかった。
「ふー、ただいま〜」
「あ、先生」
「あら園村くん。戻るの?休んでていいのよ?」
購買から帰ってきた養護教諭に、蓮が微笑んだ。その声が今は俺の中に沸々と怒りを沸かせる。もちろん、彼女が悪いわけではない。彼女は養護教諭としての仕事を全うしたまで。だから、蓮の下にある“一年二組幾瀬准”の文字があるのは、仕方のないことだ。
「大丈夫ですよ、たんこぶ出来たくらい」
「ほんと真面目ね」
名簿に書かれた今日の患者は、その二人だけ。こんなの、この男が、蓮にあの痕を付けたと言っている様なものじゃないか。偶然来たとは思えない。この春から来た養護教諭は結構面倒、というか厳しい人で昨年のようにサボらせてくれる人じゃない。それでも来たというのか。
教室の窓からグラウンドは見える。“幾瀬”なら窓際の席だろうという予想もつく。見ていて、仮病を使ってでもここへ来て、眠る蓮に?ジャージなら簡単にその首も晒すことが出来る。思い付くだけ思い付いて、怒りが呆れへと変わった。あれだけ堂々と宣戦布告した男だ。そこまでして蓮に近づくのは当然のようにすら思えたのだ。俺に見付かると分かっていながら、キスマークなんて残していったのだ。
「気分悪くなったらすぐに来てね」
「はい」
等の本人は全く気づいていないのだけど。気づく前に、自分のものに変えてしまった。
「じゃあ、失礼します。ありがとうございました」
律儀に頭を下げる蓮を視界の端で見付けて、名簿を机の上へと戻し、蓮のもとへと歩み寄った。
「はーい、お大事に」
廊下に出れば気持ちのいい風が頬を撫で、すっかり元気になった蓮は穏やかな顔でそれを受け止めていた。
気づけよ、あの後輩のこと。そう思うけれど、その顔が歪むのは見たくない。
「…虎?どうかした?」
じっと見つめていた所為か、蓮の目が俺を見上げた。そのままなにも言わないままそっと顔を寄せ、包帯の巻かれた頭へ自分の口を押し付けた。柔らかな髪から漂うシャンプーの匂いを感じてから、わざと「ちゅっ」と音をたてて。
「っ、虎!」
そう、それでいい。蓮は俺の前でだけ、そうやって表情を変えていればいい。
(どちらが先に気づいたんだろう)
(きっとあの犬の方に違いない)
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