01
「蓮さん」
気づいたら、蓮に懐いている男がいた。
「この本すごく面白かったです」
蓮と同じような髪形をして、蓮と同じような喋り方をして、蓮と同じような笑い方をする、知らない男だ。
「良かった」
放課後の図書室で、蓮はそう言って微笑んだ。
二年になってから蓮は図書委員になり、週一回の図書当番とやらをやるようになった。それが終わるのを大人しく待つ俺の、少し離れたところ。蓮はカウンターの向こうで仕事をしながらその男の相手をしている。それが面白くない、というのには理由があって。
それは、相手がそこにいる“幾瀬准”だから、だ。
その男は明らかに蓮に気がある。それだけなら何てことない。ただ、幾瀬の蓮への接し方が異常なのだ。
幾瀬は妙に蓮に執着している。蓮の話では、バイト先の図書館によく顔を出していた人で、この春からうちの学校に入学してきた一つ下の後輩らしい。学校の図書室でも出会い、その日から急速に仲良くなったとのこと。
顔見知りだったというだけで、どうしてそこまで急に仲良くなるのか。やはりそれは、幾瀬が蓮を好きだからで…
「本当に、いつもありがとうございます」
蓮が好きなものは片っ端から好きになろうとしている。その必死さに、蓮は気づいていない。気づけば、変だということにも気づくはずなのに。好きな人のために頑張る、そんな可愛いものとは思えなかった。ただ、蓮を確実に手に入れるための下積みを、準備を、着々としているようにしか見えないのだ。
そしてたぶん、俺と蓮の関係にも気づいている。蓮の傍には必ず俺がいる、そんなことは一年生以外誰も不思議には思わないらしく、今更俺たちに“本当のところはどうなの”、なんて聞いてくる同級生や上級生はいない。けれど幾瀬は…
手元の本に視線を移し、ぼんやりと眺める俺に言うのだ。「今日も、蓮さんを待っているんですか」と。蓮には聞こえないように、通り過ぎ際にさり気なく。
「……」
落とされた影はすぐになくなるが、いちいち俺に敵意を向けてくるのが鬱陶しい。蓮の当番は月曜日で、その曜日は俺も蓮も確実にバイトの入らない日。そんな日に、この男は…漏れかけたため息を飲み込み、下校時刻を知らせるチャイムが鳴るのを待った。
「虎、鍵閉めるよ」
蓮の声がやっと俺に向くその頃には、幾瀬の姿はもうなく、薄暗くなった室内には俺と蓮の二人きりだった。
「ああ」
毎週月曜日のほんの数時間。それだけで済まなくなるのに、時間はかからなかった。廊下ですれ違えば声を掛け、借りた本を教室まで返し来て呼び出す、家庭科で作ったお菓子をわざわざ渡しに来る。
「……」
「愛嬌先輩」
そしてついに、俺に声を掛けてきた。
しかも、二年生の教室がある階のトイレで、だ。一年生がわざわざそこのトイレに来るなんてマナー違反同然。移動教室だろうがなんだろうが、一年は自分達の階のそこしか使わない、そんな暗黙のルールがこの学校にはある。それでも幾瀬は特に気にした様子もなく俺の名前を呼んだ。
「ちょっと、いいですか」
「授業始まるぞ」
「次、自習なので」
「あ、そう」
面倒だなと思いながらゆっくりと手を洗う。その背後で、幾瀬はじっと俺を見つめていた。鏡に映ってるんだけど、と言おうとしてやめた。言わなくてもわかってるか、と。
「何」
「単刀直入に聞きます。蓮さんと付き合ってるんですか」
「なんで俺に聞くんだよ」
単刀直入すぎるなと、少し笑いそうになった。その表情も見られていたかもしれない。それでも幾瀬は気にした様子もなく「蓮さん、可哀想です」と、続けた。
「は?」
「愛嬌先輩の世話させられてるみたいで」
この男…俺をダメにしようとしているのだろうか。蓮を手に入れるために、まずはその周りから潰していこうって…まさか、そこまでしないか。
「蓮が、俺の言いなりになってるってか」
「はい。僕には、そう見えますけど」
「そうか」
「先輩方はどうか分かりませんけど、一年生の間ではそう言われてますよ」
「俺、なめられてるんだな」
俺が一歩踏み出すと幾瀬は一歩後退した。
距離は縮まらない。けれど、幾瀬の背中は壁にぶつかり、それ以上後ろにはいけなくなった。
「殴るんですか」
「殴るわけないだろ」
両手を幾瀬の背後にある壁に置き、蓮と同じくらいの位置にある顔を見下ろした。
「蓮が好きなら、本人にそう言った方がいいんじゃないのか」
確かに、端から見たら俺は何もかも蓮に頼っているように見えるだろうし、真実だ。でも、本当に言いなりなのは、蓮じゃない。
「良いんですか?」
言いなりなのは、蓮じゃなくて俺の方。
「僕、貴方から蓮さんを奪う自信、ありますよ」
“そろそろ髪切ろう”“ネクタイちゃんと締めて”“シャツ出てるよ”“ブロッコリーも食べて”“こっち見て“そんな言葉たちに、俺は抗ったことなどない。
「……自信、か」
「馬鹿にしないでください」
「してないだろ」
「鼻で笑ったでしょう」
「好きにしろ」
「……そうですか」
一度伏せられた目が、すぐに俺を捕まえた。
「なめられてなんて、いせんよ。愛嬌先輩をなめてる一年生なんていません」
今さらその返事をくれるのかと思ったが、それ以上話を続けるのも面倒だから黙っていた。
「でも、僕は蓮さんを貴方から貰います。貴方が好きにしろと言ったんです、邪魔はしないでくださいね」
蓮と接する時とは全く違う表情…睨むような、挑発するような、いやらしい目付き…で、幾瀬は笑った。
「知ってますよ、本当に言いなりなのは…貴方の方だってこと」
俺の弱味でも握ったような言い方だった。
そんなこと、言われなくとも分かっていると言うのに。他の誰かに何を言われたってどうでもいい。けれど、蓮が言うことなら耳を傾けて従おうと思う、それだけのことだ。
「まるで忠犬ですね」
「お前─」
「忠犬なら忠犬らしく、ご主人様の帰りを大人しく待っているだけにしてください。待ても出来ない犬なんて、見苦しいだけですからね」
「はは、お前、面白いこと言うんだな」
「っ!」
肘を曲げ、幾瀬の顔へ近づく。息の温度を感じられるほどの距離。それに一瞬怯んだ幾瀬は、それ以上下がれないのに後退ろうとした。でもその足は壁に拒絶され、ずるりと滑るだけだった。
「その自信が何処から来るのか聞きたいところだけどな、お前みたいな人間に、蓮が靡くことはない」
「そうですかね。貴方に靡くようなら、僕にだって─」
「満足するまでやってみろ。でもな、蓮に何かしたら殺す」
「怖いこと、言わないでくださいよ」
「安心しろ。今のままなら、眼中に入ることはない」
ゆっくりと顔を離し、少し絡みすぎたな、と後悔した。ここまで話をしてやるほどの価値はこの男にはなかった。壁に触れた手をもう一度丁寧に洗ってから、俺はそこをあとにした。背中に感じた視線には、振り向くことなく。
「ちっ……駄犬の分際でデカイ顔しやがって」
そんな幾瀬の呟きは、少しだけ響いてすぐに消えた。あんな男に、蓮が靡くはずない。その自信が失せることはないだろう。
「潰してやる」
でも、蓮が傷つけられたり、精神的に追い込まれたりする可能性は、大いにある。それだけは、何としても防ぎたいと思った。
(僕は何も知らなかった)
(何も知らないで、虎を)
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