005
季節は春で、開け放たれた窓からは甘い桜の匂いが吹き込んで来ていた。
『ドン』
「あ、すいません」
それに気をとられた一瞬、触れた肩。緩やかに鼻を掠めていった匂いは、嗅ぎ慣れたものだった。
「……悪い」
けれど、見上げたその顔は、全然知らないもので。見たことのない顔、深い黒の瞳と髪。鋭いその目は、確かに知らないものなのに…確実に、自分の好きな人と同じ匂いがした。
変だと感じながら、胸騒ぎを感じながら、けれどどこかで期待した。そして、“園村蓮”その名前を見つけたとき、運命だと思った。ずっと、憧れていた人の名前だったからだ。
「返却は来週の火曜日までにお願いします」
聞き慣れた柔らかな声に、優しい微笑み。
「すいません、借りたいんですけど…」
「どうぞ…あ、こんにちは」
だから、気づいてもらえて、笑いかけてもらえて、嬉しかった。
「幾瀬准くん、だよね」
いつも利用している市民図書館。
読みたいと思った本は大体置いてあって、資料も豊富で、静かで、読書をするにも勉強をするにも、いつもそこを使っていた。自宅からも比較的近くて、受験前は毎日のように通っていた。そこの係員、“園村”と書かれたネームタグを首から下げてカウンターの向こうにいた人だ。
「いつもありがとう」
誰にでもこうやって、無防備に微笑みかける見るからに聡明な人。
「その、むら…さん」
貸し出しのカードを出してコンピュータで取り込めば、きっと自分の名前が出力される。だからこの人は、僕の名前を知っているのだろう。毎日のように足を運んでいれば顔だって覚えるのは当然で。
「ああ、貸し出しだよね。学年とクラス、教えてくれるかな」
「…二組です、一年二組……蓮って、名前なんです、ね…」
初めて下の名前を知った。カウンターの向こうにある、つまり彼の背にある小さめの黒板に書かれた“当番:園村蓮”の名前。思わず口にしてしまった僕に、その人は小さく首をかしげた。
「あ、えっと…綺麗な名前だな、って…」
素直にそう思ったけれど、言ってからなんだか恥ずかしくなってしまった。
「ふふ、ありがとう」
見ていた。あの市民図書館で、カウンターにいる姿。返却された本の確認、本棚の整理、設置されたテーブルや椅子の掃除、全部、見ていた。けれど僕が知っているのはその人の名前が園村ということだけ。
だからもちろん、その人がこの学校の…僕がこの四月から通うことになったこの学校の…生徒で、図書委員だなんてことは当然知らなかった。
「貸し出し期限、一週間なんだけど…過ぎちゃうと赤紙が机に貼られるから気をつけてね」
「えっ…あ、はい」
だからこれは、運命なんだと思った。
ずっと想っていた人、遠くから見ていただけの人、その人が今目の前にいる。僕に、話しかけ微笑みかけてくれている。入学してから二週間、何度かここに足を運んだけれど、彼を見たのは今回が初めてだった。
「…あ…」
指示されるまま、本に貼られた貸しだしカードに名前を書く。幾瀬准、と自分の名前を書いてから、気づいた。
「あ、その本、面白かったよ」
何行か上の欄に、“園村蓮”の名前があった。誠実で真面目で、そして優しさが滲み出ているような丁寧な字。
「市民図書館はデジタルだから、誰が借りた、とかこうやって分からないけど…幾瀬くんの借りていく本、僕が読んだものばかりなんだ」
どくりと、心臓が跳ねる。
「タカノシュウジとか、ムラサメアキラとか…好きな作家、同じなのかなって、勝手に思ってた」
「すき、です」
こんな風に話しかけてもらえる日が来るなんて…僕はまだその状況に慣れなくて、歯切れの悪い声で頷くしか出来なかった。
「じゃあ今度、僕のオススメ聞いてくれる?」
「っ是非!」
動揺する意識の中で、僕は確実に大きくなってしまった彼への思いを押さえ込むように頭を下げて図書室を後にした。少し、歩くのが早かった所為か…
『ドンッ』
「った…」
人にぶつかって、尻餅をついてしまった。
痛いと思うのと同時に、またどくりと心臓が跳ねた。
「ちっ」
舌打ちをしながらも僕の腕を掴んで、立たせてくれたその人は…
「気をつけろ」
入学してすぐにぶつかった人、だ。多分、そう気づけたのは 見上げた彼の容姿が目をひくほど整っていて、それから…
「すいません…」
匂いだ。たった今、嗅いだばかりのあの匂い。園村蓮から漂う、あの匂いだ。…でも、香水の匂いなんて、人の体温や汗でそれぞれ変化するはず。シャンプーや洗剤も、匂いなんてその人だけのもので、なのに、この人は彼とまったく、同じ匂いがする。
僕の謝罪も聞かずに、その人はさっさと行ってしまった。振り返れば、その背中はもう何処にもなく、あったのは今僕が出てきた“図書室”のドアだけだった。
園村蓮からこの人の匂いがするのか
この人から園村蓮の匂いがするか
(どちらにしても関係ない)
(決めたんだ、この運命に従う、と)
3月14日、僕は彼に渡したいものがあって、けれど渡す勇気がなくて…
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