004
「あ、雪…もう、三月なのに…」
三月に入って、天気の良い日が続いていた。それに足掻こうとしているのか、目を凝らさなければ見えないような雪が舞った。
ああ、こんな日は、思い出してしまう。春を目前に、凍えるような思いをしたことを。
「もう、帰るの?」
中学二年生の冬と春の間。自分はベッドの上にいて、隣には好きな人が居た。
「…」
中学生にしては背が高くて、程好く筋肉のついた体に深い黒の髪と同じ色の瞳。切れ長のそれは、誰もを見下しているみたいだった。
「ねえ、虎」
誰もが振り返るような容姿をしているのに、誰にも興味を持たない人。名前を、愛嬌虎士と言った。
「触るな」
簡単に抱くくせに彼は他人に触れられることを執拗に嫌がる。まるで、誰にも懐かないくせに餌だけは食べに来る、気まぐれな野良猫みたいな人だった。此方から手を伸ばせば毛を逆立たせ、容赦無く爪を向ける。
「あ、待って…携帯!何で繋がらないの?」
「……」
「登録、してないの?」
「する必要ないから」
「っ…じゃあ、設定…登録番号以外も繋がるように、設定変えようよ」
こうして必死になる女の子を何人も、彼は嘲笑うように見下ろしてきたのだろう。“冷酷”その言葉がよく似合う目で、自分の世界は黒一色だとでも言うような目で、見下ろすのだ。
「…っ、ね、そういえば…園村くん、彼女出来たんだね」
けれど、そんな彼が唯一自分から手を伸ばすモノがあった。それは、彼とは似ても似つかない、とてもしっかりと形のある綺麗なモノ。
「確か二組の…」
それは、彼の一番近くに、何時も隣にいた人。園村蓮という名の、真面目で誠実で、そして誰にでも優しく頼られる人だった。虎とは対極に立つ模範のような。そんな園村蓮にしか、彼は懐かなかった。
「ほら、あの髪の長い」
そして彼への異常な執着心は、その頃から剥き出しになり始めていた。園村くんに恋人が出来たと噂になったのは、つい最近のことだ。
「黙れ、二度と蓮の名前口に出すな」
「っ…」
園村くんの話を始めた途端睨み付けられ、何も言えなくなってしまった。中学二年とはおよそ思えない鋭い目付きで。その日から、虎と自分の関係は途絶えた。関係と言っても、大したものではなかった。数回、肌を重ねただけの、浅はかな関係、だ。
思えば、その時から彼は、園村くんが、好きだったのだろう。園村蓮だけに向ける、穏やかな微笑み。園村蓮にだけ、心を許し、そして…
園村くんは優しくて穏やかで、彼に好意を寄せていた子はたくさんいたと思う。けれど彼の優しさは、恋人となった女の子の嫉妬の元凶となり、三年に上がってすぐ破局してしまった。
それから時間は流れ、流れ、もうあれから二年。こんな日には、ふと、あの頃の虎の顔が蘇るのだ。
“黙れ”
深い黒の瞳はいつも、悲しみと切なさと、そして苦しみを映していた。あの頃、気づいてあげられなかった彼の悲しみ。虎の機嫌を損ねてすぐ春休みに入り、三年生では違うクラスになり、進学先も違った。だから、今彼がどうしているのか私は知らない。
風の噂で相変わらずと聞いた。そんな噂さえも聞かなくなったのは、年が明ける何ヵ月か前だっただろうか。
私は彼の事が好きだった。今思えばそれは、“恋”とは違う気がするけれど。それでもやっぱり気にはなる。なってしまう。今でも、あんな世界の終わりみたいな顔をして、園村くんの隣にいるのだろうか、と。
「ごめん、お待たせ」
あの頃、気づいてあげられていたら、何か変わっていたのだろうか。もし、自分があの頃…愛嬌虎士が節操無しになる前、自分が彼の初めての女になる前、彼の抱えるものを背負うものを、少しでも減らしてあげられていたら。少し離れてよく見てみれば、虎は園村くんしか見ていなかったことなどすぐ分かるのに。明らかに、園村くんに恋い焦がれていたのに。それに気づけなかった、まだ中学生の自分。
「おーい」
改めて考えてみるとやっぱり、好き、とは違う。ただあの頃の蟠りみたいなものが、今でも胸につっかえているのだ。お互いが初めて肌を合わせ、体を重ねた相手だったからかもしれない。だから、気持ちではなく、体に刷りこれた記憶が、今もたまにこうして…
「っ、あ…ごめん」
「どうかした?」
「あ、ううん。何でもない」
名前を呼ばれて振り返れば待ち人が現れていた。舞う白い塊から目を離して、その姿を見れば、もう雪は見えなくなってしまった。
「そ?…じゃあ、帰ろ?」
差し出された手を取り、柔らかな日差しを受ける。
「雪、やんじゃったね」
「え、降ってた?」
愛嬌虎士は、園村蓮へ届かぬ思いを、他の何かで埋めようとしていた。何かで気を紛らわしたかった。そう気づいてしまった今、やはり蟠りは確実なものとなった。
「全然、降った気配無いけど」
あの頃の彼が、今はいませんように。
気づけなかった私が、彼の中から消えすように。もしどこかで見かけたら、その隣には笑う園村くんが居ますように。漆黒の瞳に、悲しみや苦しみの色がありませんように。代わりに、少しでも幸せの色がありますように。
「…気のせい、だったかな……」
こんな、暖かくて自然と心も顔も綻ぶ様な幸福を、感じていますように。もう、虚無感に任せて彼が彼自身を傷つける事がありませんように。
「ねぇ、好きだよ」
「どうしたの、突然」
「なんとなく、他の人の事考えてるように見えたから」
「何言ってるの。…考えないよ」
こんな、こんな幸せを…どうか貴方も手にしていますように。
「ちょ、虎。人のポケットに…」
「寒い」
「自分のポッケに入れなよ」
負った傷が、癒えていますように。
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