03
「子供、欲しくなった?」
カオリから連絡が来たのは、蓮と龍と動物園から家に帰ってきて一時間半後のこと。龍をお風呂に入れ、約束通りどこからか絵本を持ってきて読み聞かせていた。それからすぐ、龍は眠りに落ち、気づけば蓮まで目蓋を下ろしていた。
俺のベッドを占拠して眠る二人を横目に、俺は“由嶌圭織”と表示された携帯をもって部屋を出た。
「てめーどういうつもりだよ」
「最初にそれ?もうすぐつくんだけど、龍、起きてる?」
「寝てる」
「…そう。じゃあ、話するから、家の前出てて」
それだけ一方的に告げられて切られた電話。仕方なく俺は部屋の電気を消して、なるべく音をたてないように階段を降りた。玄関を出てすぐカオリの真っ赤な車が姿を現した。朝と同じ、ベージュのコートを羽織った彼女がエンジンを切って車を降りた。
「龍のこと、一日ありがとう」
社交辞令としか捉えることの出来ない礼だった。けれど、本当に感謝しているように、丁寧なお辞儀がついてきた。
「で」
「…急かさないでよ」
「こっちからの電話には出ないくせに」
「人に会ってたのよ」
冷たい空気が頬を撫でた。
薄暗い視界の中で、弱い街頭が唯一の光。
「龍の…父親」
カオリに息子が居ると知ったのは、まだ最近のこと。それこそ、今日のことを頼まれたときだったと思う。人を預けたい、それは子供で、自分の子供、そう言われた。
「カメラマンなの、その人。世界中飛び回ってて、会える日が限られてる。三年…それ以上ぶりに、連絡がついて」
短い髪を揺らして、カオリは話を続けた。彼女が口を開く度、その顔を隠すように白い息が纏う。
「その人ね、知らないの。龍の存在。付き合ってたのかも分からないんだけど…十年くらいの付き合いだった。何日も続けて会う日もあれば、何年も会わない日が続く。その繰り返しで、気づいたら龍が出来てた」
「言わなかったのか」
「気づいた時には、また彼は日本を出てた。いつになるか分からない帰りを待つつもりはなかったから、一人で龍を産んだ。家族には見捨てられて、知り合いもいないこの町へ来て」
カオリに子供がいると知って、正直嘘だと思った。30歳で3歳の子供、と言われても違和感はないのに…それがカオリというだけで、消化不良になる。
「最後に会った場所で待ち合わせになってたから、どうしても一日かかってしまったの」
「それで」
「……それで?」
彼女の顔に、喜びや悲しみはない。ただ、何かを吹っ切った様な、清々しい表情が僅かに浮かんでいる。
「切ってきた。話を付けたあとで、子供がいるってことも、言った。でも…彼の子だとは言わなかった」
「……」
「そんな目で見ないでよ。別に、惨めでも良い、可哀想な奴だって事もわかってる。でもわたしは…龍と二人で生きてくの、それだけは曲げられない」
形の良い大きな目に、その意思の堅さが見えた気がした。顔も声も振る舞いも綺麗な、けれど軽さや頭の悪さなど一切ちらつかない。そこに惹かれる男は、きっとたくさんいる。
それでも、彼女から浮いた話を聞いたことがなかったのは、その所為だったのだろう。
「話はついた」
「それで良いのか」
「……泣きつけばよかった?あなたの子だから、責任とりなさいよって?わたしはそんなこと願ってない」
ああ、相手の男にも、こんな目で話をつけてきたのだろうか。だとしたら…その人は、気づいたんじゃないだろうか。
「今日は本当にありがとう。龍、連れて帰るわ」
彼女が身籠り、そしてたった一人で育てているその子供が、“自分の子”だってことに。
「カオリ─」
「あ、それから…」
俺の横を通りすぎ、玄関のドアを掴んだカオリが、足を止めた。ゆっくりと、俺を振り返りながら。
「ありがとう、早めに帰ってきてくれて」
「は」
「今日、龍の誕生日なの。誕生日だから、一人で留守番なんて可哀想だし、託児所に預けるのも嫌だったの」
蓮が“誕生日なら、早めに帰ってこないと”って言ったのは…
「夕食くらい、一緒に食べたいでしょ?」
早めに帰り、風呂にいれて、少し仮眠をとらせた。その全てに、意味があった。蓮の優しさと、そしてカオリと龍両方への、気遣いだ。
「蓮くんがいて良かった」
小さく微笑まれ、ふといつかの声が蘇った。
「……なあ、前に言ってたヤツ」
「……ちゃんと見てなさい?」
じっと俺を見る、まっすぐな視線。
それに思わず頷いしまった。
「そのままの意味だけど…まあ、まだ16、7の子供なんだから、好きにしたらいいんじゃないの、とも思う」
“ちゃんと見てなさい”カオリは俺に、そう言った。俺はちゃんと蓮を見ているし、それ以外なんてどうでも良い、そう心の中で言い返していた。でも、カオリが言いたかったことや俺に気づいて欲しかったことは、そんなことじゃなかった。
「ただ…あなただけが、今のままで良いと思っていたらダメになるよ。彼…面倒見も良いし子供も好きなんでしょ?今はあなたが好きでも、それがずっと続くとは限らない」
そう、そういうことだったのだ。
蓮が、これから先何年も何十年も経って、まだ俺と一緒にいてくれるか、それを考えろって。男と男に、目標地点はないから。
普通に女の子と恋愛し、結婚し、そして子供をつくって、幸せな家庭を築きたい、いつかそう言い出すかもしれない。その思いを、見逃すことなく、そして受け入れられるように、カオリはそう言った。
「男と女でも、見逃してしまうことの方が多い。わたしは今の状況に嘆いたことなんてないけど、あなたたちはこれからを、ちゃんと見つめた方がいいって思ったの」
「……まともなこと、言うんだな」
本当の事を言えば、龍の手を引く蓮に、微笑む蓮に、俺は焦りを感じていた。このまま俺が蓮を独占し続けても、その望みを叶えることはできないから。
子供を産むという機能を持たない自分を憎み、けれどどちかが女だったら、とも思えず…ただただ、蓮に、それを望まないでほしいと懇願した。
「覚悟がいる、ってこと。あなたたちが同性しか愛せないって言うなら、話は別だけど。…お互い、ノンケなんでしょ?だったらやっぱり─」
「心配、どうも」
「…そうね、馬鹿じゃないものね…わたしが言いたいことは、よく分かったわよね」
「ああ」
「蓮くんを見たとき、思ったの。ああ、この子が、無愛想で他人に興味を持たない、自由で勝手な、この世界ごと馬鹿にしてるような目をした、あなたを夢中にさせる人か、すごいなって。そんな人と出会えたあなたもね」
彼女が言いたいことも、俺の中に生まれた霧のような掴めない靄も、先のないこの関係も…
「龍、つれてきてくれる?」
「ああ」
それでも、俺は蓮を離したくはない。そう思うのは、我が儘で自分勝手で、そして蓮にとって幸せでない方向へ導くものなのだろうか。
そんなことを考えながら家の中に戻り、蓮の腕の中から龍を抜き出し、床に置いたリュックを掴み、まだ眠る蓮の額に、キスを落として部屋を出た。目が覚めたら、“カオリさんと、仲良いんだね”って、少しくらい嫉妬してくれるだろうか。…なんて…
(小さな子供と寄り添う愛しい人に、俺は何をしてやれるのだろうか。そう、せめて、彼が俺と離れたいと言った時の心の準備を、別れられる用意を、しておくことだろうか)
無生産な僕らの行為を、
人は皆、笑うだろうか
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