02
「……こん、にちは…」
ドアを開けたら、知らない男の子がいた。
土曜日の朝、7時前。それは何の前触れもなく、訪れた。
そういえば、突然子供が訪ねてくる、なんてドラマがあったな、なんて思い付いていた。変なところで冷静で、けれど目の前にいる見知らぬ男の子に、動揺は隠しきれず。
「えーっと……」
「あれ、ここ、虎の家…」
戸惑う僕の目の前、見知らぬ三歳程度の男の子、その後ろに姿を現したのは…
「あ、おはよう、蓮くん」
虎がバイトを始めたバーの人。首が露になるショートカットに、斜めに分けられた前髪。大きすぎる二つの目が、僕を捕らえた。圭織さんだ。
「お、おはよう…ございます…」
「虎居ない?」
「あ、居ます…けど」
艶のある声は、綺麗にそれを響かせた。“虎”と。そういえばここは、虎の家だ。昨日から泊まっていたからというのもあるが、それより愛嬌家に自分が馴染みすぎているのだと気づいた。当たり前のように電話にも出るし、こうして人を出迎えもする。
「今日一日、この子、預かって欲しいの」
“この子”と言いながら、その人は男の子の小さな背中を柔らかく押した。
「あの、すいません…この子は…」
「虎から聞いてない?わたしの息子。今日どうしても行かなきゃいけないところがあって、お店も休みにして出掛けるの」
「はぁ…」
なんとも間抜けな相槌だったが、今この人、とんでもないことを言ったような…
「それで、一日だけ面倒見てほしいって虎に頼んでおいたの。…まあ、その様子だと何も聞いてないんだよね」
彼女のベージュのコート、その裾をしっかり握りしめる小さな手。そう、その子は彼女の…息子。……息子?
「え、息子…です、か?」
「ふふ、何、今さら。息子の由嶌龍。ほら、龍。お兄さんにご挨拶は」
「……ゆしま、りゅう…」
赤くなった頬。俯き加減で僕を上目使いに見上げるその子に、膝を曲げて視線を合わせた。
「初めまして。蓮です」
「できるだけ早く迎えに来るから、お願いしてもいいかしら」
「僕は構いませんけど…あの、いいんですか」
「何が?」
「え、と…もう少し信用できる人のところとかじゃなくて」
僕の問いに、彼女は一瞬目を見開いた。
虎に頼むにしても、虎一人で子供の面倒なんて見れるはずがないことは考えなくても分かる。僕でさえ虎に預けるくらいなら、一人で留守番させておく方がいいのでは、と思うのだから。何かあったら困るから、一人きりに出来ないというのはもちろんよく分かるけれど、預けて何かあっても困るのは言うまでもない。
「そうだなぁ…そうかもしれないわね。でも、他に頼める人、居ないの」
この人に息子が居るということに抱いた違和感は、この人が綺麗すぎるから、だ。アイドルも女優も、子供を産んだってその美貌を保っている。それに関しては何も思わないのに、この人には思ってしまった。年齢は、と聞かれれば25歳くらいかと答えるだろう。でも、子供がいるようには見えないのだ。それは言葉では言い表せない、感覚的なことだ。
「それに、あなたは信用できる人だと思ってる」
他にいないから、そう言って虎に頼もうとするほど、この人には頼れる人がいない。家族も、この子の父親であるはずの男の人も、誰も。
「…そう、ですね。僕、面倒見はいい方ですし、子供、好きで─」
「おい」
「あ、虎」
「朝っぱらから何の用」
僕の背後から、虎の手が玄関のドアを押さえた。寝起きの、機嫌が悪い声。それが、龍くんの目に、怯えを宿らせた。しゃがんでいた所為で、虎の膝に背中を押されるように前のめりになってしまった。
「頼んでおいたでしょ。お願いね」
「カオリ」
「一回りも年上の人を、呼び捨てにするのはやめなさいって言ってるでしょ」
「虎、僕は構わないよ」
潤んだ目から視線を離し虎を見上げる。けれど、その視線が絡まることはなく。虎の声はカオリさんへと向けられた。
「どういうつもりだ」
「何も聞かないで。迎えに来たとき話すから」
なにか、訳アリなのか…行かないでと懇願する龍くんの目を振り払い、カオリさんは「龍、良い子にしてて」とだけ言って、僕らに背を向けた。
冷たい空気を更に冷たくするように、気まずい雰囲気が漂う。行き場をなくした龍くんの手は、背負ったリュックの肩紐を握っていた。今にも泣き出しそうなほど、眉を下げて。
「龍くん、朝ごはん、食べた?」
「蓮」
ふるふると力なく、首は横に振られた。僕は虎の制止には耳を貸さないで、龍くんに靴を脱ぐよう促した。
「偉いね、靴、ちゃんと揃えられたね」
頭を撫でれば、懐かしいような柔らかな髪が指に絡まった。
「おいで、ホットケーキ、焼いてあげる」
小さな手を取り、僕は彼をキッチンへ導いた。普段の朝ごはんはお米派だけど、休日はシロップたっぷりのホットケーキもいいなと思える。もちろんそれは、虎の為な訳で…
「おい、蓮」
さっきよりも不機嫌な声になってしまった虎を振り返れると、想像通り眉間にシワを寄せていた。休みなのに朝早く起きてしまったこと、子供を預けられたこと、自分の為の朝食をその子供に奪われること、その全てに苛ついているのだろう。それから、それを受け入れた僕に対しても。
「さっさと返してこい」
「一日くらいいいんじゃない。ホットケーキも、ちゃんと虎の分作るよ」
納得いかない顔で、けれど黙った虎は無言のままリビングのソファーに体を埋めた。対照的に、龍くんは遠慮している様子で、キッチンとリビングの境目で立ち竦んでいた。
「龍くん、おいで」
不安げな瞳に、ほんの僅かな安堵。
ああ、可愛い。小さな手も、短い足も、黒目がちな落ちそうな目も、長い睫毛も、全部可愛くて仕方ないと思った。
「龍くん、いくつなの?」
「……さん」
「そう、3歳かあ」
「……きょう」
「今日って…今日、誕生日なの?」
生地を混ぜていた手が、思わず止まってしまった。リビングで不機嫌に寝息をたて始めていた虎も、それが聞こえたのか、一瞬その寝息が途絶えた。
龍くんの返事はなかったけれど、曖昧な頷きが返された。“誕生日”という意味が分からないだけで、今日の意味は知っているのだろう。
息子の誕生日に本人を人に預けるって…と、僕はその時思った。もちろん、僕がカオリさんの事情を詳しく知ることはないのだけど。それでも、どんな理由があっても、それはいくらなんでも可哀想だと言いたくなった。
「じゃあ…ご飯食べたら、出掛けようか」
その言葉に、龍くんの目はキラキラと輝き、そしてすぐにその目は曇る。そりゃそうだ。たった今知り合った男に、そう簡単になつくはずがないのだから。
それでも、リビングのテーブルでホットプレートを囲んでとった朝食のおかげで、幾らか冷たく固かった空気が和らいだ気がする。
「ねえ、虎」
「……ん」
「……カオリさん─」
「知らない」
「まだなにも言ってないよ。…龍くん、今日誕生日なのか聞いて欲しかっただけ」
「……違ったら?優しくしねぇの」
食器を洗いながら、虎は相変わらずのふて腐れ声で問うた。
「それはないよ。ただ…もしそうなら、早めに帰ってこないとな、って」
虎は意味が分からないと言いたげに眉を寄せた。
食器を洗ってから、僕らは三人で家を出た。いつも乗る電車に乗り込み、いつも降りる駅で乗り換えて、僕らは町を二つ越した。
「……動物園」
もう既に疲れきった虎の声。寒さと眠さが彼の機嫌をどんどん損ねていく。それを感じとってか、龍くんは口を開くことなく俯いたまま僕の手を握っていた。
「龍くん、何見たい?」
それでも入り口のゲートをくぐり、作られたコース通りに足を進めた。最初は何に対しても怖がっていたけど、だんだん興奮してきたように、にこにこと笑ってくれるようになった。
「れんくん」
「なに?」
「うさぎさん」
蓮くん蓮くんと、僕の名前を呼ぶ声がたまらなく可愛く、少し舌足らずな、けれど濁りのない声に心が暖かくなる気がした。あまり似ていないと思ったカオリさんも、笑えばきっとこんな風になるんだろうな、と思えた。
「虎」
「……」
「ごめんね」
「なんで蓮が謝るんだよ」
「悪いと思ってるから」
「……別に、これくらい」
「じゃあ、もう少し笑って。ほら、肩車してあげる、とか」
僕の手をしっかり握って離さない龍くんは、いまだに虎には一度も話し掛けないし、見ようともしない。怖いと思うのは当然だけど、彼に愛着が沸いてしまった僕としては、仲良くして欲しかった。もちろん、本気で肩車までしてくれるとは思わなかったのだけれど。
「わ、あっ!!」
「虎っ」
虎は無言で龍くんの両脇を掴み、抱きあげると、そのまま自分の肩に座らせた。
「たかーい」
きゃっきゃと笑う彼から虎へ。視線を下ろせば、やはりムスっとしたままの顔。その光景があまりにも不釣り合いで、思わず笑いが漏れ、嬉しくなった。同時に、寂しくもなった。
「白い虎さん」
二人は親子みたいで、きっと僕も、龍くんと手を繋いでいれば親子みたいで。でも絶対、三人で手を繋いで歩いても親子には見えない。僕が女の子だったら…なんて、思ってしまったから。
「見て、虎くんが買ってくれた」
ホワイトタイガーのぬいぐるみは彼の小さな胸と腕では、大きく見えた。実際には小さいものなのに。
「良かったね」
「うん!」
今日というこの日が、彼にとってどうなるのか。誰かは忘れたけれど、一緒に動物園に行った。肩車をしてもらって、白い虎のぬいぐるみをもらった。そんな、些細な思い出の一つとして残ってくれたなら、僕は満足するんだろうか。
「そろそろ帰ろっか」
手を繋いで歩くことが、こんなにも幸せだって、僕はこの先、感じることが出来るんだろうか。小さな手をしっかり握って、僕の握る手とは反対の手を、大好きな人が握る。そんな未来を、僕は…
「ままが迎えに来るまで、絵本読んであげるね」
思い描くことが、できない。
夢を見た僕と大事な誰かとその誰かの子供(永遠に叶うことのない幸せな夢)(目が覚めて忘れることを祈ろう)
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