06
「男の子、だったんだね」
俺よりも短い髪を揺らしてその人は笑った。その驚くほど整った顔にはきっと誰もが振り返るのだろう。
「は?」
「恋人」
マスターに頭を下げられて始めた、小さなバーの手伝い。基本的に、突然の呼び出しで行かなくてはならない。
「誰のこと」
店長の由嶌圭織、彼女のことは何度か見たことがあった。喫茶店の常連客だったから。もっとも、この人が足を運ぶのは火曜日のモーニングだけだったけれど。
「“蓮”」
春休み、夏休み、冬休み、自分が知るのはその期間だけ。でも、確かにその人は週に一度、現れていた。
「可愛い子だね」
マスターと親しげに話していた。
まあ、そんなことはどうでもいい。今は、この人の質問にどう答えるかが一番重要なことだ。
「……」
「睨まないでよ」
「こういう顔」
「貴方、彼に何も言ってなかったらしいね。ちゃんと話したの?」
「余計なお世話」
無駄な詮索はしない。そもそも自分も、この人も、他人にはほとんど興味なんて無い。だからこれは少しからかって楽しんでいるだけなのだろう。相手にする必要はない。そう気づいて、どう答えよう、なんて考えは捨てた。
「まあ、なんでもいいんだけど。貴方みたいな人でも、ちゃんと愛されてるんだって安心したわ」
前髪だけはこの人の方が長い。俯き加減で作業をするその横顔を見て思った。
「…」
「貴方みたいな男にも需要があって、良かったって言ってるの」
蓮が迎えに来てくれた日。あのまま俺の家に帰って、シャワーを浴びて出てきたら、蓮は当たり前のように夕食を用意して待っていた。
俺がこのバイトの事を黙っていたことに対しては、「どうして黙ってたの」の一言だけ。
そのあと勘違いしてた、ごめんと続いた蓮の言葉。心臓がキリキリと痛んだ。蓮が俺の行いを気にしていたなんて、思っていなかったから…気にしてもらえて嬉しいけれど、同時に馬鹿なことをしたと後悔した。むしろ後悔の方が大きかった。
「オムライス、冷蔵庫にあるのは佳乃さんの分だから、伝えておいてね」
蓮はそう言っていつものように微笑む。人の母親の分まで…まあ、佳乃は自分の子供である俺より蓮を可愛がるし、扱いもいい。そんなことを思いながら、まだ水の滴る髪を適当にタオルで拭いて歩み寄るり、そのまま正面から蓮の体を引き寄せた。上半身にはまだ何も纏っていなかったから、抱き寄せた蓮の体温がダイレクトに肌を刺激した。
「虎?」
風呂上がりの熱気の所為か、少しだけ視界が霞む。
「頭、乾かさないと風邪ひくよ」
反応しない俺に、蓮は笑いのようなため息を漏らして、頭に掛けられたままのタオルを掴んだ。そのままガシガシと、でも優しく、髪を拭いてくれた。
「……蓮」
「ん?」
「……」
「どうしたの、今日は一段と甘えただね」
小さな子供をあやすように、蓮の暖かい手が背中を滑る。火照る体はいつもより敏感になっていて、ゾクリと肩が震えた。
「と、っん、」
我慢できずにその口を塞ぎ、柔らかな唇の感触を堪能してから、もう一度抱き寄せ、その耳元で囁く。“俺に愛されてるって、胸張れ”と。
蓮は少し考えてから、小さく頷いた。呼吸で揺れただけかと間違えるほど、小さく。でも確かに頷いた。それから二日。相変わらず突然の呼び出しで、俺は由嶌圭織と顔を合わせていた。
「でもひとつ、忠告させてくれるかな」
「嫌だって言ったら」
圭織はグラスを拭いていた手を止め、俺の皮肉には聞こえないフリをして、言葉を続けた。
「ちゃんと彼のこと見てた方がいいよ」
「……は」
それはあまりにも唐突で。
しかも馬鹿げたことだった。そんなの言われなくたって、俺は蓮を見てる。
「何か言いたそうだけど、自分で気づかなきゃ意味無い。好き合うのは勝手だし自由。でもね、それだけじゃいつかだめになるよ」
意味ありげに、口角が上がる。彼女が何を言いたいのか、全くわかなかった。…その時は。俺がその意味を理解するのは、もう少しあとの話。でもその時はそれ以上、何も言われなくて。彼女はもういつもの調子で、仕事に取りかかり始めていた。
その日は金曜日だったけど、日付が変わる前に帰ることが出来た。彼女も少しは気にしていたのかも、なんて考えもしないまま疲労からくるため息を落として部屋に入った。
「っ……蓮?」
真っ暗な部屋の中、静かな寝息が僅かに聞こえた。ベッドの上、布団に潜り込むことなく、冷えた室内で眠る蓮。待っていてくれたのだろうか…起こさないように歩みより、はっとした。また“酷い臭い”と思われるかもしれないと、頭を過ったから。
「と、ら……、?」
「っ、悪い…起こした?」
手を伸ばせば届く距離、俺は足を止めて、まだ慣れない暗闇の中で、蓮のシルエットを見つめた。
「んん……ごめん、待ってようと思ったのに…」
むくりと起き上がった蓮は、曖昧な感覚で俺を見つけて手に触れた。相変わらずの温かい手で。
「おかえり。お疲れさま」
「あ、ああ。……ただいま…」
俺の返事に満足したのか、蓮は手を離して布団へと潜り込んでいった。そして隣に来いと言うように、布団をとんとんと叩く。
「寝よう」
「先に寝てろ。シャワー浴びてくる」
早く蓮から離れたい。また不快だと感じられるのは嫌だ。そう思ったのに、蓮は「朝でいいよ、寝よう」なんて、とろりとした声で呟いた。
いつになく甘えてくるから、堪らなくなってベッドに膝をのせる。やっと暗闇に慣れた目で蓮の唇を見つけて、そこへキスを落とした。触れるだけのキス。離れた唇を惜しむように「んっ」と甘い吐息を漏らしたのは蓮の方だ。
「虎」
耳元で聞こえた衣擦れの音。蓮の腕が首に回されて、そのまま布団へと誘い込まれてしまった。汗をかくようなバイトではないし、一応着替えはしている。布団が汚れる心配はなかったけれど、抵抗は消えない。
「蓮、先に寝てて良いから」
「一緒に、寝よう」
ぎゅっと、強く抱き締めたまま、蓮は再び寝息をたて始めた。この体勢で寝るのか…と思ったくせに、蓮の匂いに包まれてしまえば、そんな思考などどうでも良くなる。自分より華奢な、でもしっかりと男の体をした蓮を胸に納めて、俺も眠りについた。
意識を手放す直前、蓮はもぞりと動いて、消え入りそうな声で囁いた。
“良かった、虎だ…”
不安と焦りと恐怖。安堵と喜びと幸福。蓮の中に在る全てを、理解することなど不可能だと言われても、わかっていても、俺は蓮を離しはしない。たとえ、この関係に待つ結末が、残酷なものだとしても。
暖かな体を抱き締め直して、蓮の額に唇を当て付けたまま、もう一度しっかりと目を閉じる。
「虎、何処にも行かないで…」
聞き逃してしまいそうなその声は
確かに鼓膜を揺らし脳に焼き付いた
(この温度が永遠に続けばいいと)
(柄にもなく思って眠りについた)
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