Tiger x Lotus | ナノ

04 

清潔感があって柔らかい。時折ふっと、甘い匂いを振り撒くそれは心地好くて。ずっと嗅いでいたいと思う。そのまま、眠りに落ちたいとも、思う。それを遮るように、体を揺すられて目を開けた。

「ほら、虎。起きて」

匂いを振り撒く張本人だ。予想した、愛しい人の姿。どうしてだか、ああ、全部、夢だったのか、と安堵の息が漏れていた。

「用意しないと」

「……用意?」

「うん、見て。おばあちゃんが虎にって、新しい浴衣くれたんだよ」

ああ、そうか、今日は町内の花火大会だった。規模の小さな、ほんの数十分の花火が夜空を彩る。それに行く約束をしていたんだ。
まだ霞む視界の中、俺はぼんやりとそんなことを思い出した。蓮の手にある、濃紺のそれは確かに初めて見るものだった。段々とハッキリしてくる視界に伴って、その濃紺の中にはワントーン明度の高い青色の縦縞が不規則な間隔で引かれているのが分かった。

「帯は去年と一緒でもいいよね。ほら、早く起きて」

蓮は何事もなかったように俺に微笑む。
そう、まるで何もなかったみたいに。

「はい、手広げて」

室内は妙に暗かった。そんなに眠っていたのだろうか…外は僅かにオレンジ色で、その原因は空一面に広がる夕焼けだった。やっぱり寝過ぎたみたいだ。

「髪、伸びてるから結う?」

言われてみれば、襟足は首を完全に覆っているし、前髪も目の下まである。随分切っていない、暑苦しい髪形をしている、と今さら気づいて適当に頷いた。その返事が蓮に聞こえていたのかは分からない。蓮は手際よく俺の体に浴衣を巻きつけて、帯まで形よく締めた。
俺の部屋には姿見なんてない。だから自分がどんな感じなのかもよく分からない。浴衣っていうものに執着もないし、どちらかといえば窮屈で好きじゃない。それでも、ここ何年かは蓮が着付けてくれるから大人しく着せられていた。

「はい、座って」

今度は髪の毛か、と黙認してベッドサイドに腰掛ける。
いつものように膝を広げて座ることが出来なくて、しかも下腹部や腰が張っているみたいで、やっぱり窮屈だと思った。蓮はそんなことお構いなしで、俺の好き放題伸びた髪を黒いゴムで結ってくれた。ハーフアップ、というものだ。

女の子がそれをするのは可愛いだろうが、男がしても大した変化はない。それでも、幾分か頭が軽くなった気がした。

「蓮も、着るのか」

「うん」

蓮はそう頷いて、持参してきたらしい濃いグレーの浴衣を広げた。それにも、ワントーン明度の高い灰色の縦縞。もしかして色違いなのか…と思ったが、浴衣なんてどれも同じに見える。よっぽど柄や模様が違わないと、俺には見分けもつかない。

たいした鏡もないのに、よく上手に着れるな、と感心していたら、蓮が俺を振り返って小さく微笑んだ。

「そんなに見ないでよ」

どこかで見たことある景色だと思った。
でも、何処でそんな光景を目にしたのか、記憶にない。

「よっし、出来た」

クローゼットに備え付けられていた小さな鏡で襟元を確認した蓮は、満足げに声を上げて俺の手を引いて階段を下りた。玄関には、年に一度しか履かない下駄が、二組揃えて置かれていた。まるで、俺たちを出迎えているみたいに。

「足、大きくなってないよね」

まあ下駄は窮屈なものだし、少しくらい我慢してね、と返事も聞かずに蓮は俺の足を其処に無理矢理押し込んだ。かなり小さい気がする、けどまあなんでもいい。どうせそんなに歩かない。

「はい、行こう。ほら早く。りんご飴買ってあげるから」

いつのまに手にしていたのか、蓮は黒い小さな巾着袋を顔の横で揺らした。気は乗らないがこれは毎年のことだ。蓮に手を引かれて家を出る。
外に出ると生暖かい空気が全身を包み込んだ。いやそれでも今年は幾分か涼しいかもしれない。汗をかかない程度の、快適な温度だ。

「あ、わた菓子もいいかな」

「どっちも」

幸せな時間、とはこういうことを言うのだろう。
好きな人と手を繋いで、他愛もない話をして、微笑みあって。しばらく歩けば屋台の並ぶ道に出て、同時に安っぽいアナウンスが聞こえた。それからすぐ、空に大輪の花が咲く。空を仰ぐ横顔を見ながら、ああ、幸せだ、なんて、柄にもなく思ったのだ。

「あ、見た?ハート型だったよ」

時折、そうして俺の方を見るに。それがまた、可愛くて、愛しくて、俺も微笑み返す。

『続きましては…』

そんな間のアナウンスなど聞かず、蓮は俺の浴衣の袖を捕まえて、視線を指差す方へと促した。“りんご飴”そう書かれた屋台。中では真っ赤なりんご飴が食べられるのを待ち望んでいた。

「食べよう」

蓮は、甘いものが得意じゃないはず、そう思ったものの、俺のを一口舐める程度に食べるのも毎年のことだと思い出して大人しく買いに行った。並んで、数分もしないうちにそれは俺の手の中にあった。空ではもう続きの花火が打ち上げられている。

「虎、おいしい?」

「…んん」

「そ、良かった」そう言って浮かべた満面の笑みを、夜の花が照らす。それがたまらなくなって、思わず腰を引き寄せて、蓮の額にキスを落とした。蓮は僅かに顔を赤くして、小さく笑った。顔が赤かったのは照れた所為か、花火の所為か、りんご飴の所為か、本当のところ良く分からない。
笑った後蓮は俯いて、でもすぐに俺を見上げて言った。

「もう1回」と。こんな幸せ、他にあっただろうか…俺は嬉しくなって蓮の頬を両手で包み込んだ。そしてそのまま唇を、寄せる。
りんご飴は地面に落ちていて、周りにはたくさんの人がいるのに誰も俺達を見ていなくて、花火は上がっているのに音はしなくて…耳を澄ませば、何も聞こえない事に気づいて。触れたはずの唇は…

「っ…」

目の前には、なかった。
蓮の匂いも、りんご飴の匂いも、空を飾る花も、暗闇に浮かぶ蓮の妖艶な顔も、俺の目の前にはなかった。何も。あるのは見慣れた無機質な天井だけ。蓮の“もう1回”という声と、伏せられた瞼から伸びる睫が、脳に焼き付いていて、ああ、夢を見ていたのだ、と気づくのに時間がかかった。

「……夢」

声にしてしまえば簡単に現実に引き戻された。キスはなかったものの、たった今見た夢は、今年の夏のことだ。俺が蓮に、告白する前。蓮が俺に、屈託なく微笑んでくれていたとき。

薄暗い部屋の中、自分のベッドの上。
外ではちょうど、五時を知らせる鐘が鳴っていた。


幸せな夢を見た
(夢でくらい、触れさせて)
(夢でくらい俺を好きって言って)



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