▼ ___3話、憂鬱で退屈な日々はいつまでも
しばらく続いていた雨も次第に止み、雲の間からは日の光が覗き込むようになった。
久しぶりに見る太陽の眩しさに、思わず目を細めた。肌を掠める風から感じたいつもとは違った雰囲気に、気付けば着ていた上質な羽織りを脱いで部屋の外へと飛び出していた。
重たい具足のたくさんの足音、鎧の擦れる音、静かだった日々には無かった男達の話し声、もしやと思い外を覗いて見れば、戦に出ていた松永軍の兵達が帰って来たのが見えた。
「名前様、どこへっ!?」
「兵達が帰って来たようです、戦が終わり、きっと松永様も」
「駄目です名前様! 名前様は側室のお一人、兵達の元へ行くなどっ、はしたないです! どうかお戻り下さい!」
「何を言うのです! 城主様のお戻りですよ千代、いずれ私共にも一報が届くでしょう、遅かれ早かれ、帰還のお迎えに行かねばなりません」
「ならば今でなくとも良いでしょう!」
千代の呼ぶ声が聞こえていながらも、私の足が止まる事は無かった。いつも部屋に篭っている私を見た女中達は何事かと声をかけてくれた。女中達とはよく話をするのでそれなりに仲が良い。他の側室の女達は女中と話をしたりはしない。女中と側室とでは大きな身分の差があると、相手にしないようにしているらしい。
「名前様、どこへ行くんですか?」
「外を見て下さい、ほら、兵達が帰って来ましたよ」
「あら本当! みんなに知らせてきます!」
「ええ、みんなお腹が空いているだろうからたくさんの握り飯と水をお願いします、それに傷の手当ても」
「分かりました!」
走り去る女中の背中を見た後に、私は再び城の中を進み、下の階へと降りた。進んだ先には多くの兵達が腰を休めていた。
土の匂いと、鉄の匂い、そして微かに匂う血の匂いに、此度の戦の激しさを感じた。
「ん? 名前ちゃん?」
「甚内様!」
名前を呼ばれ、そちらを向いて見れば鍛錬場でよく話をしてくれた松永家の武将である松永甚内様の姿があった。鎧は酷く傷付き、怪我も負っていた。しかし尚、二本の足で真っ直ぐにそこ立っていた。
「お帰りなさいませ甚内様」
「久しぶりだね名前ちゃん、さて今日は何から話をしようか」
「甚内様、どうか今は体を休めて下さい、戦の後でございます、話などいつでも」
「大丈夫さ、僕は見かけによらず体が頑丈なんだ、鍛えているからね、しかし今回ばかりはとても疲れた、こんなにもゆっくりと流れる雲を見上げるのはいつぶりだろう」
「……。」
甚内様は大丈夫だと言っているが、戦は過酷なものだったに違いない、こうして無事に生きて帰ってきた事が何よりも喜ばしい、国の為、民の為、彼らは守る為に戦ったのだ。
「名前? もしかして名前か?」
「兄上!」
「ああそうか、今は城に居るんだったな、そうかそうか、久しぶりだな名前!」
駆け寄って来たのは右目に包帯を巻いた男、実の兄である兄だった。この戦には傭兵集団である鉢屋衆も松永軍の一員として参加していたようだ。
しかし目の前にいる兄の姿は、武装しているものの上から下まで返り血が酷くこびり付いていた。黒く変色したそれらをまるで気にしていない兄に、この人はまた相変わらずだなと笑ってしまった。
「もしやまた敵軍に特攻したのですね兄上、戦略もなしに突っ込むのはやめなさいと父上からいつも言われていたではないですか」
「何を言う! 私が敵陣にめがけて突貫する事で開ける道もあろう、後ろは五助や三郎や勘助が続く、鉢屋衆不敗はまだまだ健在だ」
「私は兄上を心配しているのです」
「その心配は不用だ妹よ、松永公は我ら鉢屋衆を認め、高く評価している。ならば我らは全力で松永軍の未来の為に力を貸すのみだ」
「……鉢屋衆の為に、ですか」
我が兄らしい、昔から何も変わっていない。誰かの為に、鉢屋衆の為に誰よりも一番に特攻し、仲間を引っ張るその大将格らしき勢い、いつも誰よりも血を浴び、誰よりも怪我をしている。私は怪我をして帰ってくる兄の姿を見たくはないのだ、鉢屋衆として生きるからこそ怪我は仕方ないとしても。
「これは驚いた、名前ちゃんと鉢屋衆の大将が兄妹だったとはね、ん? って事は名前ちゃんは鉢屋衆の娘さんって事か」
甚内様は二人のやり取りを見て関係に気付き、なるほどなと頷いていた。
「自慢の妹だ、誰よりも優しい」
「兄上……!」
「知っているよ、こうして血を浴びた僕達の元に一番に駆け付けて、心配してくれる彼女を見ていればね、そんな女性はなかなかいない」
甚内がそういうと、兄の兄は満足そうに笑った。そうだろうそうだろう! とやけに上機嫌だ。
「しかし、腹が減ったな、なあ名前」
「しばらくお待ちを、ただ今握り飯と水を用意しています、兵の皆さん、まずは腹ごしらえを、怪我をしている者はすぐに軍医の元へ、今はとにかく体を休めて下さい」
腰を下ろし休んでいる兵達にそう伝えると、嬉しそうに喜ぶ声がたくさん聞こえた。やはり兵のみんなはお腹が空いていたようだ。
そしてしばらくして、女中達がたくさんの握り飯と水を運んで来て兵達に配っていた。そして怪我をしている兵には軍医や女中達で手当てをなされているようだ。甚内様も怪我をしていたようで手当てを受けに向かって行った。
「握り飯をくれ名前」
「まずはその血に汚れた手袋を外して下さい兄上、ああもう、お顔にまで血が飛んでいるではないですか、一体どれだけ暴れ回ればそんなところに」
手ぬぐいで兄上の顔を拭き、乾いた血を拭き取った。その様子を見ていた甚内様が「羨ましいね」と呟いていた。ん? 甚内様は妹が欲しいのだろうか?
「ああもう、早食いはいけません兄上、ゆっくりとお召し上がり下さい、握り飯はまだありますから」
「相変わらず厳しいな名前は」
「兄上が変わっていないからです」
「名前は変わったな」
「私は何も変わってなどいませんよ」
「松永公には良くしてもらっているか?」
「……。」
もぐもぐと握り飯を頬張りながら、兄上は突然そんな事を聞いてきた。
「……。」
「名前? どうかしたのか?」
「兄上、此処は退屈な所です。毎日部屋に篭り、空ばかり見上げる日々です、鉢屋衆にいた頃を懐かしく思います」
「退屈?」
「私は松永久秀様とお顔を合わせた事など一度もありません」
「何だと……名前は松永公の側室ではないのか?」
「ですが松永様は私の顔を知りません、私の名を知りません、私の存在というのは、鉢屋衆を松永軍へと引き入れる為の戦略だったのでしょうか」
「確かに最近の鉢屋衆は力を失いかけていた、しかし父上が名前を使って我らを存続させたとは思えない、それに名前を側室に差し出せという申し出は松永の方からだろう」
「ならばその申し出、断れたのでしょうか」
「!」
「ごめんなさい兄上。私は大丈夫です。鉢屋衆の安泰の為、私はこの身を松永にと置きます。例え必要とされなくとも」
「……名前」
握り飯を三つぺろりとたいらげた兄上は、「すまない」と口にした。鉢屋衆を守るという想いは二人とも同じだった。その為には自分が何をするべきなのか。
「名前様っ! 此処に居たんですね!」
「千代?」
駆け寄って来たのは侍女の千代だった。慌てた様子に「何かあったの?」と尋ねた。
「松永久秀様がお戻りになられて、朝日様やその他の側室の方達は松永様の元へ行きました、名前様もどうか向かって下さい!」
「そう、朝日様達は松永様の元へ」
「何を呑気に、名前様も側室のお一人ではないですか」
千代の言葉に、怪我の手当てが終わり戻って来た甚内は「え、名前ちゃんって側室だったのか?」と驚いているようだった。そういえば甚内様や他の兵の人達は私を女中だと思ったままだった。
「いやあ、やけに美人な女中さんがいるなあとは思っていたけれど、まさか久秀の側室だとは」
「名前は母上に似て美人だ」
「そうなのか、是非その母君に会ってみたいものだよ」
甚内様と兄の兄は何やら話が合ったようで、人の話題で盛り上がっていた。
「松永久秀様がいらっしゃったぞっ!」
とある兵の声に、皆がそちらを視線を向ければ城内からこちらに向かって来る松永様の姿があった。姿が見えた途端に、騒がしかった兵達は静かになった。これが松永軍というものだ、兵達が見るその先にはいつも我が城主である、松永久秀公の姿が。