▼ ___25話、さあ、終焉といたしましょう
「久秀……どうして此処に」
「私が此処に来てはおかしいか、甚内」
城主である松永久秀は鍛錬場にゆっくりと歩いて入って来た。竹刀を持ったまま呆然としている揚羽を見た後、名前のそばで泣いている千代を見下ろし、軍医の手当てを受けている名前のそばに膝をついた。
「容態は」
「耳の上に打撲痕が、しかし微かに意識に反応がありますので、暫くすれば目を覚ますかと」
「そうか」
軍医に名前の容態を聞いた久秀は、名前の頬をひと撫でして、すっと立ち上がった。そして視線は竹刀を持つ揚羽の方に向けられていた。
「久秀」
良くない空気を察した甚内はすぐに呼び止めたが、久秀の足はゆっくりと揚羽の方に向かっていた。
「おい、久秀……」
「さて、児戯はもう済んだかね?」
久秀は甚内の呼びかけを無視し、立ち尽くしている揚羽に近付き、見下ろした。
「松永、久秀様」
「遊び尽くし満足したか、それともまだ遊び足らぬか? いやはや、君のような幼子には何度も手を焼かれるようだ」
「お、幼子……?」
「おや、違ったのかね」
「松永様っ! 私は、私は、貴方様の妻に一番相応しい者です。誰よりも強く、名前さんよりも強いのです。どうか私を!」
「名前よりも、何だ」
「名前さんよりも、私が貴方様の妻になるべきなのです、名前さんは私よりも弱いのです」
「君が名前を」
「はい、勝負して勝ったのです!」
揚羽が自信満々にそう言うと、涙声混じりの声で千代が「これのどこが勝負だというのですか! 話し合いを望んだ名前様を竹刀で……これのどこが勝負ですか!」と揚羽の方に向かって叫んだ。
久秀が千代の言葉を聞き逃すなんて事はなく、目を細めて揚羽を見下ろした。
「君は私の正室になりたいのかね?」
「はい! 私の家は一刀流の道場です、きっと松永様のお役に立ちます、どうか私を正室に迎え入れて下さい!」
「……。」
鍛錬場が静かになったかと思えば、甚内の「名前ちゃん!」という声が響いた。久秀や鍛錬場にいる兵士達は、軍医の手当てを受けていた名前の方へ視線を向けると、気を失っていた名前が目を開いた。
「名前様!」
「名前ちゃん」
「……千代」
「はい、私です!」
「痛っ……」
「そのままで結構です! 無理に起きなくとも」
「手を貸そう、僕の肩に掴まって」
甚内は起き上がろうとする名前に手を貸すと、名前は上半身だけ起こした。頭が痛むのか、頭を押さえ込み苦しそうな表情をしていた。
そして、ようやく名前は視界に久秀の後ろ姿を捉えた。
「……久秀、様?」
目が合ったので呼びかけてみたが、久秀は名前の方を見るのをやめ、揚羽の方へと再び向かい合った。
「あ、死んでなかったんだ」
揚羽は目を覚ました名前の姿を見てそれはそれは残念そうに呟いた。その台詞を聞いた久秀は目の前にいる揚羽の首を掴み、そのまま勢い良く上へと持ち上げた。
「が、はっ……!」
首を締め上げられている揚羽は竹刀を力なく床に落とし、呼吸が出来ず苦しみもがいていた。足をばたつかせ、久秀の手から脱出を試みているようだったが、ギリギリと首は絞まるばかりだ。
「久秀っ、何を……!」
「さて、もういいだろう」
「!」
「君の児戯に付き合う程、私は暇ではない」
そう言い、久秀は首を掴んだまま揚羽は床へと叩きつけた。揚羽の小さな体は床に激突し、その痛みに苦しみすぐに起き上がれそうにもなかった。しかし揚羽の視線は久秀の方へ向いていた。
「な、に、を……松永、様」
「誇りたまえ、君ほど価値の無い人間はそう居ない」
「か、価値……」
「遊びが過ぎれば撲たれるものだ……そうだろう?」
「わ、私は、名前さんより、も」
「おかしいな、君は名前よりも価値のある人間とでも思ったのかね」
「!」
「狡猾な強さで、その価値を超えられるとでも思ったのかね? そうだとするばらば君はもはや人間と呼べるものではない」
「な、なに、を」
揚羽は動けぬ体を震わしながら、久秀を見上げていた。その表情は恐怖に怯え、綺麗な顔立ちは歪んでいた。
己を見下ろすその男は、腰元にある刀に手を伸ばし、鞘からゆっくり抜いた。キラリと光るその刃に、揚羽の体がビクッと反応した。
「や、やめ……やめ、て」
「さて、君は私のものを幾度となく傷付けたのだ、一度目は大目に見てやったというのにこの有様か、これほど私を苛立たせておきながら処刑が免れるとでも思っているのかね?」
「なっんで、だって、どう、して……名前さん、なんかを」
「まだ分からないのかね」
「!」
「君は名前に、何一つとして勝っていないのだよ」
「い、嫌、違うっ、だって、私は勝負にっ!」
「目障りだ」
久秀は刀を握り、刃を上に振り上げた。揚羽は動けない体で、その様子を涙を流しながら見つめていた。
「久秀様、何を、やめて下さいっ」
名前は久秀が刀を振り上げたのを見て、すぐに久秀に呼びかけた。しかし、久秀から返答はなく、振り上げた刀はそのまま振り下ろされた。
「梟の啼く夜に怯えつつ眠りたまえ」
名前からは久秀の背中しか視認する事が出来なかったが、動かなくなった揚羽の体を見て、手が震えた、震えで声も出なかった。ただ、目の前の現実を受け入れたくなかったのだ。
久秀様は、揚羽さんを斬った。
殺してしまったのだ。
そう理解出来たのは、少し後になってからだった。手の震えはいつまで経っても治まってはくれない、けど久秀様の背中からは目が離せなかった。
「名前」
「!」
久秀様は私の方を振り向いた。
その姿は、返り血で汚れていた。白い袴姿だったはずが、血で汚れたその姿を見てしまった私は、また手を震わせた。
ああ、また私のせいで、
この人は人を殺めてしまった。
……全部、私の、私のせいだ。
「……嫌」
何で、どうして?
どうして、久秀様は揚羽さんを?
「誰か、刀を頼む」
刀を振り、付着した血を振り落とすと、駆け寄ってきた兵にその刀を渡した。兵士は無言で受け取り、すぐに身を引いた。
「名前」
「!」
気が付けば、すぐそばに久秀様がいた。そして私の震える手を握っていた。久秀様の大きな手に包まれ、次第に震えが治っていた
「甚内、アレの始末を」
「……殺す必要はあったか、久秀」
「生かす必要もない」
「彼女も側室だろう。名前と同じ、久秀の側室だ、殺すなど」
「あれと一緒にするな甚内。名前に勝る者などいるはずがない、側室など……名前さえいればいい」
「全く……これで何度めだ」
ため息を吐きながらも、承知したらしい甚内は死に絶えた揚羽の方へと向かった。途中、甚内は兵達に手伝うようにと声をかけた。松永軍の兵にとって死体処理はよくある事なのか、すぐに動いてくれた。
「久秀様……」
「まだ震えているのかね」
「何故、揚羽さんを」
「ふむ。怯えているのか、そうか、君は私が怖いのか」
「……。」
「私が恐ろしいのか、名前」
「!」
名前は体をビクッと震わせた。そして、久秀の顔から視線を逸らした。名前のその様子に久秀は眉間に皺を寄せた。その様子は明らかに不機嫌そうだ。
「恐れる事はない、私の方を見たまえ」
「……。」
「ふむ」
「……。」
「私から逃げたいかね、名前」
「……逃げ、る?」
「私が恐ろしいのだろう? 今すぐにこの手を離し、私から逃げたいだろう?」
「けど、私は久秀様の側室で……」
「無理に側室である必要はない」
「!」
「君を側室に迎えたのは松永の者だ。君がそうしたいのならばそうするといい、だがそうする事で君の家族……鉢屋衆はどうなるか。衰退していた鉢屋衆は、松永の敵となるか、それともそのまま野垂れ死ぬか、選ぶのは君だけ。好きにするといい」
「そん、なの」
千代の方をちらりと見れば、千代は首を振っていた。逃げてはいけない、という事なのか、そうではないのか。
顔を上げて久秀様の顔を見れば、私を真っ直ぐに見つめていた。この人なら、鉢屋衆をどうする事も出来るだろう、生かす事も殺す事も思いのままだ、私が此処で久秀様から離れようものなら、鉢屋衆はきっと松永から見切られる。そうなれば……鉢屋衆はどうなる?
選択肢など、最初から無いようなものだ。
「久秀様、私は、久秀様から、離れません」
「賢い選択だ」
「……。」
「いいかね名前、君は私のものだ。君以上の者など居ない、しかしこの騒ぎは私の責任だ、責任はとろう」
「責任?」
「私は君を正室に迎えようと思う」
「!」
久秀様の発言に、近くにいた千代も同じように驚いていた。今まで誰一人として正室に選ばれなかったというのに、久秀様は私を正室にと仰った。聞き間違いかと思ったが、そうではないらしい。
「二度とこんな馬鹿げた争いが起こらぬように」
「私、を……しかし」
「ふむ、正室だけでは心配か? ならば側室の者を全て斬首してしまおうか、それならば」
「おやめ下さいっ、お願いです、もうこれ以上、この城で血を流さないで下さい」
「確かに城が汚れるのは好かない」
なんとか頷いて貰い、側室の斬首は免れた。正室に迎え入れられたというのに、この恐怖心は一体何だろうか、いや、無理もない、目の前で何人も久秀様は人を殺しているんだ。
雪路様、勘助、揚羽さん……
私のせいで、人が死んだ。
久秀様に殺されてしまった。
「(私の、せい……?)」
私が此処に存在しなければ、三人は殺されずに済んだのではないだろうか。
「顔色が悪い、部屋に戻って休むといい」
久秀様が「侍女」と呼ぶと、千代がすぐに私の体を支えてくれた。「名前様、行きましょう」と、千代に言われて私は鍛錬場を出て部屋へと連れて行かれた。
「千代、私のせいで……揚羽さんが」
「名前様が悔やむ事ではありません」
「けど……」
「名前様はお優しいですね、揚羽というあの娘は名前様を殺そうとまでしていたというのに」
「そうだとしても、死なずに済んだかもしれないでしょう」
「刃を向けたのはあの娘です、強さに過信し、そうなる覚悟も無かったのでしょう、自業自得です」
「千代……」
「名前様、名前様は殿の正室となったのです、今はどうか、逃げずに殿に寄り添って下さい……鉢屋衆の未来はは名前様次第です」
「……。」
久秀様は、私を正室に迎えた。
それは、久秀様は私を気に入ったから。他の側室よりも、私を好いてくれたから。好いている?久秀様は私の事を愛してくれているのだろうか?
愛を囁かれた事などない。
やはり私は久秀様の宝の一つでしかないのだろうか。手元に置いておきたい、そういう感情なのだろうか。私は久秀様が怖い、けどどうしてだが、嫌いにはなれない。迷惑かもしれないが、支えてあげたいと思ってしまう。欲望に取り憑かれたあの方に必要とされるのなら、必要ないとされる日まで共にいよう。
私のこの首も、いつかは要らないと言われてしまうのだろうか。
逃げるなんて、私はしない。