▼ ___22話、今日の天気は曇りのち不穏な気配
厨が爆発し黒焦げになるという事件が起こり、城中では側室同士の争いの話題で持ちきりだった。私はというと、部屋から出るなと久秀様に言われてしまい、「退屈です」と伝えれば、書物や楽器や手毬などが次から次へと部屋に届いた。
「何がなんでも部屋にいろ、という事なのね」
手毬を手に持ちながら、ふうとため息を吐いた。こんなにもたくさんの暇つぶしの道具を私に与えてまで、久秀様は私を部屋の外へ出したくないらしい。千代も部屋を届いた物達を見て驚いていた。こんなにたくさんあっても持て余してしまうというのに。
「名前様、どうかご辛抱下さい。殿はきっと名前様の身が心配なのです。厨のぼや騒ぎで名前様に怪我がなかったのが不幸中の幸いです。もし名前様が火傷でも負っていたならば、あの揚羽という娘の首は即座に落とされていたでしょう」
「久秀様はそんな事をしないわ、相手は十二の娘なのよ?」
「いいえ、名前様の存在は他の側室とは違うのです、千代はこれまで遠くから見ていてそう思いました。殿にとって名前様は他の者よりも特別なのです」
「特別? けど私は久秀様にとって側室の一人でしかないわ、特別だなんて」
「殿のお考えは私にも分かりません。どうして正室を迎えないのか、どうして名前様を特別扱いしておきながら側室という立場のままなのか……」
一体、殿は名前様をどうしたいのか。千代は頭を抱えながら悩んでいるようだった。しかし悩んだところで、私の立場が変わるわけもなく、ただ手元で手毬を転がすしかなかった。
そういえば揚羽さんは大丈夫だろうか、気を失っていたらしいが、今はもう回復しているといいのだけど。
「揚羽さん、元気かしら」
「あんな気の強い小娘など気にしなくてもいいです、名前様に勝負を挑もうなど百年早いというものです、全く、あの文が果たし状だったなんて思いもしませんでした!」
「側室の誰もが久秀様の正室となりたいと思うもの、挑まれるのは仕方のない事よ」
「なら名前様は、揚羽という娘だけでなく、側室の女ならば勝負事なら引き受けるというのですか? 名前様は争い事を嫌っているじゃないですか」
「私だって久秀様の隣に居たいのよ、争う内容にもよるけれど、この想いは負けたくないもの」
「勝負など、殿に止められそうなものですが……」
「では久秀様には内緒で行いましょう」
「名前様って、意外と怖いもの知らずですよね……殿を怒らせてしまっても千代は知りませんよ」
「ふふ」
争い事は確かに苦手だけど、久秀様を想う気持ちは負けたくない。だって私が一番、久秀様を想っていたい、ただそれだけ。
手毬を転がしたり、琴を奏でたり、久秀様が置いていった茶器を眺めたりしていると、部屋の外から声がかけられた。本殿に立ち入りが出来る者はごく一部の者だ、しかも私に用があって来たとなれば珍しい事だ、しかしかけられた声には聞き覚えがあった。
「甚内様?」
「ああ」
千代に頼み襖を開けてもらうと、そこには甚内様が私に会いにお見えになっていた。松永家の者であれば、本殿にあるこの部屋に来るなど容易な事だ、なにも不思議ではない。
「突然すまないね……っと、この部屋には随分と物が多いね」
部屋に入るなり、甚内様は部屋の中にある琴や書物や、転がる手毬を見て驚いているようだった。やはり甚内様から見ても、この物の多さは尋常ではないらしい。
「これらは全て、久秀様が退屈しないようにと私に用意して下さったんです」
「ああ、なるほどね。さては久秀に部屋を出るなと言われたんだろう? 君の身を案じるのは分かるが、物を与えて部屋に閉じ込めるまでしなくともいいだろうに、息がつまるだろう?」
「いえ、平気です。厨での一件もありますし、今は刺激を与えずに久秀様の言う通りにしなくてはなりません。久秀様に怒られたくないですからね」
「うーん、たまには久秀に反抗してもよいと思うけど」
「そ、そんな事をすれば久秀様の機嫌を損ねてしまいます、そして次は斬られるか燃やされるかです」
今まで、久秀様は側室の女達に手をかけている。一人や二人ではないらしい、私も久秀様が手を汚す血濡れた場面をこの目で見てしまっている、久秀様の機嫌を損ねたり、価値のない人間だと見切られたら最後、そこで終わりだ。
「おや、そうだろうか? 君なら大丈夫だと思うけどね」
「甚内様、ご用件は……」
「ああ、すまない。実は揚羽という娘から君宛に文を預かって来ていてね、はい」
「揚羽さんから?」
甚内様は懐から文を取り出した。
どうして甚内様を通して揚羽さんから文が届いたのかは分からなかったが、ひとまず甚内様からその文を受け取った。また一体、どういった用件だろうかと恐る恐る中身を見ると、千代が私の隣に寄って来て、揚羽さんからだという文を一緒に覗いた。
「これは」
「やっぱり……」
私と千代は顔を見合わせた。
「え? どうしたんだい二人共? 一体その文には何が書かれて……?」
「甚内様、何がというより、何が書かれているのか読めないのです」
甚内様に揚羽さんからの文を見せると、甚内様はぎょっとした顔でその文を持った。相変わらず揚羽さんの字は汚いままで、解読にまた時間がかかりそうだった。
「え……あー、うん、これは酷いね。うちの息子より酷い。しかし、うーん、これは読めない事もない、えっと、少し待ってて」
どうやら甚内様は文の内容を解読してくれるらしく、私はその解読を甚内様にお任せした。もし此処にいるのが久秀様であったならきっとまた文は燃やされていただろうなぁと思ったが、口には出さないでおいた。
甚内様に息子がいた事には驚いたが、甚内様は子供に字を教えていた事があり、こういった字には見慣れているそうだ。
「ふむ」
「何か分かりましたか?」
「全く……あの娘はまた、とんでもない事を」
「?」
「これは果たし状だよ、君と久秀の正妻の座をかけて勝負がしたいそうだよ」
「えっ、またですか? しかし、揚羽さんは厨への立ち入りは禁じられているはず……」
「厨を黒焦げにして怒られたのが効いたのか、今度は料理以外で勝負したいって書かれているよ、全く強気な子だ。そういえばあの娘は一刀流道場の娘だったかな? 料理で勝てないなら、次は剣術で、という事にならなければいいけど……いやはや、子供脳というのは恐ろしい」
「剣術……」
剣術で勝負、だなんて。
料理や茶法ならともかく、剣術で勝負するなんて考えたくもない。幼い頃から剣術の稽古も受けていたので苦手というわけではないが、そもそも剣術というのは守るべきものがあってこそ身に付け武術、女の争い事に剣術を利用するなどあってはならない。私の剣術は身を守る為に身に付いたものであって、相手を攻撃するものではない。十二の娘と久秀様を巡って争う為に、剣術を必死に身に付けたわけではない。
「明日の正午、鍛錬場にて待つ。だそうだ。しかしこれは久秀に相談した方が良さそうだな。名前ちゃん、この果たし状を受けるべきではないよ、君が怪我をしては久秀がまた心配を」
「お受けしない方が、いいのですか?」
「名前ちゃん、君は」
「私は誰よりも久秀様に相応しい妻でありたいのです、それに揚羽さんは正々堂々と果たし状を送り、私に勝負を挑んできました、ならば私は揚羽さんの想いを真正面から受けなければなりません」
「勝負を受けるというのか……ちなみに、君は剣術の心得はあるのかい?」
「私とて鉢屋衆の一人です、兄には到底敵いませんが、多少なら
心得があります。けど、私は剣術で勝負をするつもりはありません、剣術をこのような事に使いたくないのです」
「確かに剣術を喧嘩の道具とするのは、毎日鍛錬している僕からしてみても、気分のいいものではない」
「どういった争いになるかは存じませんが、剣術での争いをするつもりはありませんよ」
「……まずは久秀にこの事を通そう」
「私が伝えます」
「それはやめた方がいいだろう」
「いえ、これは私と揚羽さんとの果たし合いです。私が久秀様にお話します」
甚内様にそう告げると、私に文を返してくれた。そして「無理はするな」と言った。その言葉の意味を、私は重く受け止めた。久秀様は以前の厨での争い事をよくは思っていない様子だった、そしてまた、同じように果たし合いがあるとすれば、よい顔はしないだろう。
「名前様、果たし状など無視しましょう、あんな娘の勝負など買う必要などありません」
「千代、私は久秀様が好きなの」
「名前様、しかし」
「この想いは負けないわ、誰にも。この気持ちも、私だってたまには足掻いてみたいもの、本殿でぬくぬくと部屋に引きこもってるだけの女じゃないのよ」
「名前様、かっこいいです!」
「では、私は久秀様のところに行ってくるわ千代」
「はい!」
私は立ち上がり、久秀様の元に向かう為、部屋を出た。甚内様は私を心配しているようで、「近くまで一緒に行くよ」と後ろから慌てて追いかけきた。
「名前ちゃん、君はきっと久秀の本妻に一番近い存在だ、何も勝負しなくとも」
「揚羽さんとの勝負はまだついていません、どちらが久秀様を想っているのか、一度きちんと対峙しなくては揚羽さんは分かってくれません、それにこれは私の為でもあるのです」
「うーん、女の争いというのは恐ろしいものだね」
甚内様は背を真っ直ぐにし、前を向いた。向かう先は久秀様がいらっしゃる部屋だ。甚内様や千代の言う通り、私は側室の中では特に大事にされているという自覚はある。けどそれだけじゃ駄目だ、正妻となるために必要なものを備わっていなければならない。私には足りないものだらけだ、ならば身に付けなければ、
女としての、心の強さを
戦国の世を生きる、覚悟を
時代に取り残されない、知恵を
可愛がられているだけでは、愛らしい小動物と一緒だ。真理から目を背けずに、揺るぎない覚悟を持ち、何が正義で何が悪かを見極める頭が必要だ。
そして全てを備わった時には、久秀様は私を見て下さるだろうか、私のこの奥にあるものを、心を好きになって下さるだろうか。
「戦いというのは、争うだけではありませんね」
己の奥にあるそれを、認めてもらってこそだ。