▼ ___21話、挑まれて恋い焦がれて二つの想い
「鉢屋名前! 出てきなさい!」
今日は曇り空で静かな一日だなと思っていたその時、私の名前を呼ぶ大きな声を耳にした。その声はとても大きく、城中に聞こえたのではないかと思う程だ。
「何事ですか揚羽さん」
その声の正体は、あの年若い娘の揚羽だった。彼女の元へ向かってみると急に指をさして「鉢屋名前!」と再び大きな声で名前を呼ばれた。この子はいつも元気そうだ、それは何よりなのだがこうも大きな声で何度も呼ばれては城にいる者達の邪魔になってしまう。
「ちょっと! 聞いてるの?」
「あ、はい。聞こえていますよ。それよりも揚羽さん、そんなに大きな声を出しては久秀様の執務や、お仕事をされている方々の邪魔になります、どうかお静かにお願いします」
「うっ……そ、そんな事より鉢屋名前! どうして果たし状を送ったのに、指定した日時に中庭に来ないのよ! ずっと待ってたのに!」
「……果たし状?」
そんなもの、貰ったかしら?
「あんた宛に文を送ったはずよ! 昨日何で来なかったのよ!」
「文?」
ああ、もしかして……字が汚すぎて読めなかった、あの困った文の事かしら。確かあの文は揚羽さんから私に届いたもの、途中まで何とか解読したもだけど、久秀様に時間の無駄だと言われて燃やされてしまったのだった。文の存在をすっかり忘れていたわ。
「あの文は果たし状だったのね。ごめんなさい、字が読めなかったの」
「え? 字が読めない? 名前さんって頭悪いの? 馬鹿?」
「……そういう意味じゃないわ」
「あ、分かったわ! ひょっとして私に負けるのを恐れて、わざと昨日来なかったんでしょ? そうよねぇ負けたらすぐに此処から出て行く、それが嫌だったんでしょ?」
「いえ……昨日は久秀様と共に囲炉裏で久秀様が収集した宝を眺めていましたよ」
「松永久秀様と!?」
「ええ、どれも素晴らしいものばかりで、そうそう久秀様が私にと金細工の綺麗な笄を下さったの、勿体なくて使うのについ戸惑ってしまいました」
久秀様が私の為に用意をしたと言って下さった、私の為にだなんてそんな、嬉し過ぎて、つい泣きそうになってしまいました。
「わ、私が中庭ずっとあんた待っていたというのに、鉢屋名前は松永久秀様と、仲良くいちゃいちゃべったべたとしていたと、そういう事ですか!?」
「いちゃいちゃだなんて……」
「ゆ、許せません! 果たし状を送ったのに、それを無視するなんて!」
「それはごめんなさい……けど揚羽さん、貴方が送ってくれた文を読んだけれど、字が汚過ぎて、果たし状だと分からなかったの」
「字が汚い? そんなはずはありません、父上は私の字を見ていつも褒めて下さりました! 読めなかった名前さんが悪いのです」
「……そうなのかしら」
もしかしたら、ちゃんと文に向き合えば読める字だったのかもしれない、だとすれば果たし状を無視してしまった私が悪い、揚羽さんが怒るのも無理はない。けど文は久秀様に燃やされてしまったので、違う意味でもう読めなくなってしまった。
「ごめんなさい、私がちゃんと読まなかったばかりに……果たし状という事は、揚羽さんは私と戦うという事ですか? あまり野蛮な事はしたくないのですが」
「勝負といっても、どちらが松永久秀様の妻に相応しいか勝負するんです。妻としての器があるかどうか、妻としての力量を比べさせて貰います! そうすれば名前さんが松永久秀様の正妻に一番近いだなんて、もう誰も言わなくなります」
「妻として……」
妻として相応しいか力量を見るというのならば、この勝負は絶対に負けられません。私だって久秀様の正妻という立場になりたいです、いつまでも複数いる側室の中の一人、だなんて言われたくありません。せめてこの勝負に勝ち、揚羽さんよりは久秀様の妻として上だという事を証明しなければ。
「勝負事はあまり好きではありませんが、妻としての力量比べとあれば黙っていられません、さあ何で勝負致しますか?」
「そうね、まずは料理かしら」
美味しい料理を作った方が妻に相応しい、と言い出した揚羽と共に、厨へと入った。厨の中にいた女中さん達が何事かと騒いでいたが、事情を説明すると「楽しそう」と言って下さり、この料理対決を手伝ってくれる事となった。
「ところで名前さん、料理の腕前は?」
「里で花嫁修業をしていましたので、ある程度は」
「ならば良い勝負となりそうですね、けどすぐに名前さんの悔しがる顔が見られそうです!」
どうやら揚羽さんは、随分と料理に自信があるようで、包丁を私に向けて宣戦布告をしてきた。
「包丁を人に向けてはいけませんよ、包丁は料理をする上で大事な道具、大切に扱って下さい」
「わ、分かってます! さあ勝負です名前さん!」
そう言うや否や、揚羽さんは何かを作り出した。女中さん達は心配そうに揚羽さんを見ているようだった。鍋が落ちる音が聞こえたが、大丈夫なのでしょうか。
側室の二人が勝負をしている、という情報はすぐに城中に流れて、気付けば厨の外には様子を見に来た野次馬で人だかりが出来ていた。こういった騒ぎ事がない城なので、私達の勝負をまるで祭のように楽しんでいるようだった。(久秀様の手によって行われる処罰は、もう城の者からすれば慣れているようで、それらは騒ぎ事ではないらしい)
「……何の騒ぎかね」
「やあ久秀」
「甚内、お前まで何故、それよりこの人だかりは何だ」
「どうやら厨で側室同士が争い事をしているようだよ。何でも、どちらが久秀の妻に相応しいか……だそうだ、側室達に愛されているな久秀、羨ましいくらいだ」
「馬鹿な事を」
「そう言うな久秀。お前がいつになっても本妻を選ばないから側室達で争い事が起こるだ。一体いつになったら本妻を作るんだ? 美しい者達ばかりで、一人に決めかねている気持ちも分からなくはないが」
「……。」
「ああそういえば、また側室が増えたそうじゃないか、そんなに増やしてどうするんだ」
「私が女を欲するように見えるのかね」
「ん? そうか。という事は、やはり家臣達が次から次へと娘を連れて来ているのか、久秀の子が生まれてくれれば落ち着くだろうが……」
「……。」
「さて久秀、この側室同士の争いを止めないのか? 久秀を取り合っているんだろう? なら久秀がどちらが好みか正直に言ってやればこんな争い事、すぐに終いになるのでは」
「側室同士の争いには全く興味がないのでね、争いをして勝ったところで私の目を引けるとでも思うのか、不定な事だ」
そう言い、久秀は人だかりから離れ、来た道を戻ろうとしていた。側室同士の争い事にはまるで興味がないようで、彼にとっては部屋で茶を啜っている方がまだ退屈しないらしい。
しかしその時、
厨から大きな爆発音が聞こえた。
厨からは黒煙が激しく上がり、その煙は自身がいる廊下にまで向かって来ていた。その場にいた野次馬や女中達は爆発と黒煙に慌て驚き、すぐにその場から逃げるように離れていた。
「これは、何事だ……」
「久秀! 中にまだ名前ちゃんがいる!」
甚内は厨の近くで逃げ遅れた女中を助けて、抱えながらそう言ってきた。
「何だと」
どうして名前が厨にいるのか、まさか側室同士の争いというのは名前が関わっているのか。しかし名前は争いを好む方ではない。名前がこんな事をするとは思えない、ならばこの惨事は何だ。
そんな事を考えながら、体は煙が充満している厨の中へと向かっていた。黒煙で中が見え辛いが、咳き込む女の声を聞き、すぐにそちらに向いた。
「名前……!」
「けほっ、ひ、久秀様?」
「来なさい」
「!」
厨の中でしゃがみこむ名前を抱きしめ、そのまま体勢を変えて立ち上がった。久秀は名前を抱きかかえたまま厨を出ると、女中達が「名前様!」と駆け寄って来た。
「あ、ありがとうございます、久秀様」
「名前、大丈夫かね」
「はい……あ、あの揚羽さんは! いけない、まだ中に彼女が」
「揚羽?」
「助けないと、久秀様っ、私を離して下さい、揚羽さんが!」
名前は自分を抱きしめている久秀から抜け出し、厨へと再び向かおうとしたが、煙を吸ってしまったせいかふらつき、その場で咳き込んでいた。
「けほっ、ごほっ……!」
「名前、此処は危険だ。離れなければ」
「し、しかし、私は」
そんな名前の言葉を聞かずに、しゃがみこむ名前を大事そうに抱き上げた。
「久秀様、お願いです」
「何がだ」
「お願いです、揚羽さんをどうか助けて下さいっ、まだ中に、揚羽さんが!」
「何故私が助けなければならない」
「何故? 揚羽さんは……揚羽さんは久秀様の側室のお一人にございます」
「苦しむ君を此処に残してまで、助けに行く価値がある者とは思えないな」
「!」
「私を非情な人間だと思うかね? そう思ってくれてもいい、しかし私は君さえ無事ならばそれでよしとする」
「……。」
名前が厨を見つめると、煙の中から揚羽を抱えた甚内様の姿があった。どうやら甚内様が揚羽さんを助けてくれたらしい、煙を吸ってしまったのか、揚羽さんはぐったりとしているようだった。
「甚内様っ、揚羽さんは!」
「ああ、大丈夫だよ。ちゃんと息をしている、気を失っているだけだ」
「良かった……」
久秀様の胸に寄り添うように、ふうっと息を吐いた。久秀様は私を離す気がないようで、私は揚羽さんの元に行く事が出来なかった。目線をふと厨の方へ向けると、どうやらすぐに消火されたようで煙は小さくなっていた。
「甚内、中で何があった」
「大鍋から火が上がっていたよ、全く……厨で爆発するだなんて、中は黒焦げで酷い有り様だ。それにしてもこの城はよく爆発する城だね、全く」
甚内様が厨の様子を説明をしていると、ちょうど女中達が「揚羽様の鍋が突然爆発したんです」と甚内様に言っていた。
「一体何を作っていたんだこの娘は」
「その娘が起きたら伝えろ甚内。金輪際、厨への使用・立ち入りを禁ずると」
「分かった伝えておく、僕もそうした方がよいと思う。さて、怪我人はすぐに医務室へ、この子も連れて行くよ。名前ちゃんの事は久秀に任せておけば安心だ」
では、と甚内様は気絶している揚羽さんを抱えたまま行ってしまった。料理で勝負をするというはずだったのに、どうしてこんな事になってしまったのか。厨は黒焦げで、側室の一人が気絶、どうやら女中の何人かも怪我をしているらしい。
私のせいだ。
私が勝負事なんて引き受けなければ、こんな惨事にはならなかったかもしれない。揚羽さんの自信満々な様子に、彼女の料理の腕を信じてしまったばかりに、こんな事に。
ちらりと久秀様の表情を盗み見ると、久秀様は抱きかかえている私の顔を見ていた。目が合い、体が一瞬震えた。すぐに目を背けてしまったが、きっとまだ久秀様は私を見ているだろう。
この気まずさをどうすればよいのか。
「名前」
「は、はい」
「具合はどうだ」
「……特に、痛みなどはありません」
「火傷をしていないかね」
「火元から離れていましたので……」
「そうか」
すると、久秀様はひと息ついていた。
おかしい、久秀様は私を咎めるような事を口にはしなかった。てっきり久秀様に怒られると思っていたのだが、それは一向に訪れない。これはどういう事だろうか。
「名前、争い事を拒む君が何故こんな事をしたのか、まあそれはいい。君の事だ、理由があったのだろう」
「咎めない、のですか」
「争いの種を蒔いたのが、君ではない事くらい解し得る」
「ですが事の発端は」
「勝敗を決めなければ気が済まないのかね、ならばあの娘の首を落とせば満足か? 手數だが、それも致し方無い」
「そ、そんな事は望んでおりません、私は、ただ……」
ただ、久秀様の正妻になるべく、それに必要な力量を試したかっただけなのです。誰よりも久秀様を想う気持ちは負けたくありません、誰よりも久秀様と共にありたいのです。
「私は……久秀様に見合う女になりたいのです、争い事は苦手ですが、こればかりは誰にも負けたくはないのです」
「名前、君は十分に魅力的だが」
「久秀様……」
「名前」
目と目が合い、久秀様の視線からは逃げられない。久秀様の瞳には私しか映っておらず、私もまた視界には久秀様のみ。
小さな悲鳴が聞こえ、そこでようやく私は気付いた。見つめ合う私達を、女中や城の者達が見ていたのだ。頬を染めて私達を見る女中や、ニヤニヤしている兵士達、彼らに見られていた事が恥ずかしくなり、私は思わず視線を下に向けた。
久秀様は、私を床に下ろしてくれそうもなく、私を軽々と抱き上げたまま、本殿の方へと連れて行かれてしまった。