▼ ___18話、持つモノ、持たざるモノ
月見、
……というのは、とても風流で私は好きです。遠くの何処かで激しい争いがあったとしても、此処が騒がしい日々になろうとも、今だけは誰にも邪魔されず、のんびりと時間が過ぎて行く、私はこういった時が一番良いとする。誰も傷付く事なく、月の美しさで心が浄化されるようで。
上を見れば、真ん丸な月は神々しく、そして淡く、その存在は静寂な暗闇の中であってもとても美しく、誰もの視線を奪ってしまう程のもので、今宵はこの月を見ながら一献傾けるというのも、それはそれは良い月見酒となりましょう。
「君の言う通り、今宵はとても良い月だ」
「今日は満月、そして曇り空も少なく、良い月見酒となりましょう」
「その物言い……まるで君はそうなると知っていたかのような口ぶりだ、予知の能力でもあるのかね?」
「予知とまではいきませんが、鉢屋衆の者の中には風を読み、天気を当てる事を得意とする者が多くいます、私もその中の一人なのです」
「ほう、それは実に面白い特技だ。成程、それで私を今宵の月見酒にと誘ったのか……いや、恐れ入った、君は実に趣深い女のようだ、ますます君を手放したくはない」
「何処にも行きません、私は久秀様と共に」
「必定、必定……」
久秀様は私を見てそう言った後、一献傾けた。気分が良いらしく、酒の進みが早かった。
今日が満月だと知っていた私は、今宵の空は風や雲が姿を隠し、良い月見となります、と久秀様を月夜の下での一献「月見酒」へとお誘いした。久秀様は「滅多にない君から誘いだ」と言い、誘いに乗って下さった。
此処には私と久秀様の二人しかいない。私は月見をするふりをして、二人きりの時間を楽しんでいた。こうしてゆっくりと二人で過ごすなんて、何て幸せな時間なのでしょうか。
「……薄々と勘付いては居たが」
「?」
隣を見れば、久秀様は大きな月ではなく、私の方を見下ろしていた。月夜の灯りでお互いの顔がよく見える、暗闇であれば私のこの緩んだ表情を見られる事もなかっただろうなと思いながら、恥ずかしさでそっと下を向いた。
「な、何をでしょうか」
「名前」
「は、はい」
「君の内側にあるそれだ」
「……内側?」
何の事でしょう? と恥ずかしさで俯いていた顔を上げた。久秀様は何かを考えるように、手に顎を乗せていた。
一体、私の内側に何があるというのか。
「君は、色が多すぎる……いやそれはいい、だが、その中には闇の黒や、それらを義とする闇の白さすらも見当たらない、君は光すら持たないというのか、人ならば誰しもが持つべきものだ、ならば何故君にはそれが見当たらないのかね」
「闇……ですか」
「人を恨んだ事はないか、人を消したいと思った事はないか、人は物食いだ、人である為にそれを成そうとは考えないのか、この世では必要なものだ、何故君はそれを持とうとしない?」
「人を、恨むなど」
「人はきっかけさえあれば誰でも殺戮遂行者となる、子供も大人も関係はない、人であれば、君でさえもそうなれる」
「私は……」
人が苦しんだり、死んだりするところは見たくない、と言えば久秀様は何と言うだろうか、きっと久秀様は今までたくさんの人の命を奪って来ただろう。私の知らない所で、その剣と火薬で……勘助も久秀様に殺されている。勘助の死はどうやっても忘れられない、しかし久秀様は人の命が散っても何とも思わないようで、だけどむしろそうあった方が、この時代では生きやすいのかもしれない。
こんな時代だが、私はどうしても人が殺し、殺される事を良くは思えない。鉢屋衆として、武士の娘として、武将の妻として、この考えは良くないと思っているのだけど。
「君は根本的に悪い事が出来ないのか、いやしかし、そんな人間などいるはずがない」
「悪い事……? 私も悪い事くらいした事があるますっ」
「ほう」
「例えば……」
私はふと、今までの悪業を考えてみた。
「悪い事……」
「……。」
「悪い事くらい、した事が」
「あるのかね」
「……あ、久秀様の言いつけを守らずに鍛錬場の中に入りました」
「ほう」
「……とか、そんな事はしていませんよ?」
「……。」
「えっと」
どうしましょう、つい久秀様に言ってしまった。あれほど鍛錬場には行くなと言われていて、離れて見ろと言いつけられていたというのに。
「名前」
「は、はい」
「人はいつか壊れる、人はいつか消える、人はいつか終わる、君はそれは理解しているだろう」
「……。」
「君は賢い女だ、理解していると信じていよう」
「……久秀様は人の心の弱さを見透かしてしまうのですね。けれど、やはり私は、どうしても」
「感じた事はないかね? この世が既に壊れていると、奪い奪われ、蹴落としてまで天下を、この日ノ本を手に入れようとする者達ばかりだ、これが今の世の中というもの、君の内側にあるそれは、私の内側には存在すらしない、私はそれを必要と思う事もない」
「……。」
「私は些か、感情というものが足りないらしい、そのせいか君のような優し過ぎる心は持たぬのだよ」
「優しい心は、この乱世には必要ないのでしょうか……」
「いや、違う、私は君にそんな表情をさせたいわけではない」
久秀様の表情は穏やかで、そっと私の髪をさらりと、優しく撫でるようにとかした。長い黒髪は久秀様の指によって弄ばれていた。
「私には存在しないものを、君は持っている。名前、君の優しすぎる心はまるで菩薩だ、そんな君だからこそ惹かれるものがある」
「私は……ただの臆病者です、傷付ける事に怯えて逃げているだけです、良いとは思えません」
「ならば君は戦う事が出来るのかね?」
「争い事を避けていても、この世では残っていけません、守る為にも人は戦うのです……しかし、誰も怪我をしない戦い方というのはないのでしょうか」
「だから君は優しいんだ」
「……。」
顔を下に向けると、久秀様が私の両手を掴んだ。ハッとすると、ぎゅうと握られた手に力が込められていた。
「世の真理への叛逆……か」
「久秀様?」
「名前、君の刃は私が引き取ろう、全て私が貰ってしまおう、その清らかで美しい心こそが君自身だ」
「けど、私は」
「君からは刃を貰い、無垢を贈ろう。
戦う必要はない、君はそのままでいい、どうか私のようにはならないでくれたまえ」
「……。」
久秀様の真剣な表情に、私は頷くしか出来なかった。鉢屋衆でありながら、戦う事すら拒んでいた私の心を、この乱世の時代で誰の血も流して欲しくないという、私の臆病な心や、焦り、悲しみを、久秀様は全て見透かしていた。争いを好まないこの優しすぎるこの想いは、私の弱点でもあるというのに、久秀様は私のこの心はそのままでいいと仰った。
守る為には、戦いや争いも仕方がないと私は日頃から自分に言い聞かせてきた。しかし久秀様はその不安は全て自分に委ねろと申し出てきた。
「君は十分に理解しているだろう、争いを避けているばかりでは何も守れないと」
「……。」
「覚悟が足りないと悩む必要はない、君が背負う必要はない、全て私が背負う。君はただ松永と、この国の安泰だけを望んでいればいい、国と民と君が……私の宝でもあるのだから」
「安泰……宝」
「さて、月夜はこれくらいにしようか、君とこうしているのも悪くはないが、私は寒がりでね、どうやら温もりが欲しくなってきたようだ」
「ふふ、では私も共に」
夜空を見上げれば、変わらず美しさを輝き出している満月がこちらを見ているようだった。吸い込まれそうな月の美しさについ目を奪われてしまう。
「君は、月のようだ」
「月、ですか」
「君の美しさからは目が離せない……ああ、そうか月にはいくら手を伸ばしても届かない、ならば月のようだと言うのはやめにしよう、この手に入らなければ困る」
「!」
手は握られたままで、私の視線はもはや月どころではなくなった。月よりも今は久秀様に見つめられていたい、私だけを見て欲しいと望んでしまいそうになる。
この時だけは、ついつい月に対抗心を燃やしてしまいました。
闇の黒さ……本能のままに悪い事をする。
闇の白さ……正義の為にと悪い事をする。