▼ ___17話、この想いだけは誰にも負けない
本丸御殿に住み、しばらくが経ちました。
二の丸にいた頃とはまるで違い、私と久秀様は共に過ごす時間が増え、部屋で一人きりで過ごしていたあの退屈で寂しい日々は、いつしかもうなくなっていきました。あの頃は一人で変わり映えのしない空ばかり見ていたけれど、今では隣に久秀様がいる事の方が多い。
こんなにも幸せな日々が続けば良いなと思いながら過ごしていたが、これを良く思わない人もいるようです。
「名前さんですね」
「はい」
侍女の千代と共に城の中を歩いていると、年若い娘さんが私の前に現れた。見知らぬ娘の姿に警戒したが、彼女の他に侍女らの姿はなく、目の前には彼女一人だけのようだった。
「私は揚羽(あげは)といいます、松永様の側室として選ばれ、この城にいます。今日は名前さんに用があり、部屋を抜けて会いに来ました」
「私に?」
初対面である彼女が、私に何の用なのか、明らかに良い用件ではないだろうなと思いながら、彼女の用というのを聞く事にした。
「名前さんは現在、松永久秀様と共に本丸御殿の方にいらっしゃるそうで、女中や兵や他の人はみんな、名前さんがこのまま本妻になるだろうと言っています、けど……それは絶対にあり得ないと私は思うのです」
「……。」
「何故なら、この私が松永久秀様の本妻に選ばれ、私が本妻になるべき女だからです、この事をどうか貴方に理解して頂きたいので、こうして貴方に会いに来ました」
揚羽という娘の発言に、千代も口を開けたまま驚いて……いや、呆れているようだった。彼女は私の方をビシッと指差して「貴方には早々に御殿から出て行って貰います」と言い放った。
「揚羽さん、随分と本妻のなる自信があるみたいですが……その自信はどこから」
「自信? そりゃそうです、簡単な話ですよ? 分からないんですか?」
「……。」
「全くっ……仕方ありませんね、ならこの私が直々に教えてあげます! 名前さんが持っていないものを私は持っているからです! だから名前さんは本妻にはなれません、本妻になるのは私です」
「私が持っていないもの?」
「若さと美貌です!」
「……。」
自信満々に行った揚羽に、千代がついに「はあ!?」と呆れた声を出していた。
「何言ってるの小娘!? 名前様のように若くて美しい人が他にいるわけないでしょう! だいたい何ですか貴女は突然に! 常識というものがっ」
「落ち着いて千代」
「だって、この小娘が!」
「いいのよ」
千代をなんとか宥めて、再び揚羽という娘の方を見た。確かに彼女は私よりも若い、私はまだ十代ではあるが、彼女はもっと若いだろう、確か側室に十二の娘が入ったという噂があると女中さんが言っていた、ならば彼女がそうなのか。
「私のこの若い肌、この美しい顔、きっと松永久秀様は私を選ぶに決まっています。名前さんごときの美しさじゃ本妻には選ばれませんよ」
「貴方、随分と若く見えるけれど……久秀様とは年が離れていませんか?」
「年なんて関係ありませんよ、男の人というのは若ければ若い程、良いとするらしいです」
「だから久秀様が、貴方を選ぶと?」
「ええ、間違いありません。今のうちに荷物をまとめておいた方がいいんじゃないですか? このまま此処に居ても無駄に年を取るだけですよ? 若さのない女なんて久秀様がそばに置くわけないですもの」
「いいえ、久秀様が私を必要ないと仰るまでは本丸から動きません、貴方の言う事を聞く必要もなさそうですし」
「なら出て行けと言われるまで、是非とも部屋で怯えていて下さいね、私が松永久秀様に見初められれば、すぐに名前さんを追い出してあげます」
「……。」
「何よ急に黙り込んじゃって、言いたい事があるなら言ったらどうですか」
「揚羽さん」
「何」
「貴方は久秀様の事が好きなのですか?」
「はい?」
「愛おしいのですか? だからそんなにも、久秀様の本妻になりたがって」
「何それ? 好きとかそういうの必要ないでしょう? 私の役目は松永家のお世継ぎを産む事なんでしょ? それに私が本妻となれば我が家は安泰よ、みんなから期待されてるんだから、だから何がなんでも私が本妻になるの」
「久秀様の事を、好きではないの?」
「私は名前さんと違って、恋愛しに此処に来てるんじゃないの、恋愛感情なんて必要ないでしょ、要は松永久秀様に気に入られれば良いんです」
「……。」
「絶対に蹴落としてやるから」
「……。」
「ではまた、名前さん」
強気な揚羽という娘は、言いたい事を全部私に言い切ったのか、ご機嫌な様子で廊下の先へと行って見えなくなった。
「何なのですか……あの小娘はっ!」
「凄い子ね、とても勝ち気で、強気で、武将の妻に必要なものを持っていますね、羨ましいわ」
「何を言っているんですか、羨ましがる必要なんてありませんよ。だいたい年が若い程良いなんて、そんなはずありません」
「でも久秀様のご趣味がそうだとしたら?」
「え」
「本妻を決めるのは久秀様よ、もし久秀様が揚羽が良いと決めたのならば、私は潔く身を引かなければいけませんね」
「そんなっ、名前様が身を引く事など……それに名前様は悔しくはないのですか、あんな小娘に言われて」
「悔しいわよ」
そう言うと、千代は「ならどうして」と言った。千代の言いたい事は分かる。けれどこの件は、久秀様次第だ。本妻にするのは誰が良いかなんて、決めるのは久秀様だ。私にはどうする事も出来ない。
けど、もっと悔しいのが揚羽という娘が「恋愛感情なんて必要ない」と言った事だ。私はこんなにも久秀様の事を想っているのに、彼女は何とも思っていないと言う。あんなにも優しくて、人間らしい生き方をしている久秀様に対して何の感情を持たないだなんて、側室の誰もが久秀様の事を想っていると、そう思っていた。朝日様だって、雪路様だって、きっと久秀様を愛していたはず、その感情がいらないだなんて思いたくもない。
「私は彼女よりも、久秀様の事が好きなの。若さや美貌では負けたとしても、この気持ちだけは負けたくないもの」
「名前様も若くて美人ですってば!」
「行きましょう千代」
「名前様はもっと自信を持つべきです」
後ろから慌てて付いて来る千代はそう言ってはくれるが、私にはどうしても自信が持てなかった。
それは、私は自分の心の弱さを自覚しているからだ。戦のない世が訪れて欲しい、誰も怪我をして欲しくない、そういう甘い考え方をしてしまうのだ。私には覚悟が足りない、背負うものが無いんじゃない、背負う覚悟がないんだ。武将の妻となるには、その覚悟が必要だ。
私はそれらを自覚している。
強くならなければ、この世を生きていくには、この未熟な心を強くしなければ、いつまでも優しい心のままではいけない。強くならなければ、どんな事があろうとも、迷わない心を手に入れなければ、久秀様の隣にいる価値などない。どれだけ気に入られていようが、迷っているうちは覚悟なんて出来ていない。
「戦のない平和な世なんて、訪れるはずないのにね」
この世は乱世、皆が天下統一を目論んでいる。今しばらくは荒れた世となるに間違いない、戦い、血が流れ、多くの人が死んでしまう。
この世とちゃんと向き合わなければ。