▼ ___8話、今はまだ、貴方に会いたくない
「傷、やはり少しは残りますね……ですが薬が効いてこれから良くなってくれれば、多少は目立たなくなるかもしれません」
「少しなら化粧でなんとかなるかもしれないわ、ありがとう千代」
「名前様のお綺麗な顔が……」
あれから数日が経ち、傷の経過を見て千代はまた落ち込んでいた。鏡を見ればまだ少しの傷はあるものの、もうしばらくもすれば目立たないものにはなるだろうと私は安心した。
「しかしよろしいのですか名前様、松永様のお誘いを何度もお断りして」
「……ええ、このお顔を久秀様に見られるわけにはいきません」
傷がここまで回復するのまでの間に、久秀様から何度もお誘いがあった。しかし病を理由に断っていた。いつもならば久秀様からのお誘いとあれば喜んでいたでしょうけれど、今はそうもいかない。
傷の付いたこの顔を、見られたくない。
「けど……名前様は、松永様にお会いしたいのでは、だって名前様は松永様のことを誰よりも」
「ええ、本当は久秀様に会いたくて堪らない、けど今は」
頬に手を添えた。傷が残るこの顔さえなければ久秀様の元へと急いで向かっていただろう。しかし今はまだ会うわけにいかない。こんな顔を晒すわけには。
「あの方の前では、常に綺麗でいたいもの。この傷を見られるわけにはいきません」
「私は、雪路様が憎いです、名前様に対して何故このような事を」
「憎しみなど何も生みません、その感情は捨てなさい千代」
「しかし……」
「女同士ならば、女として向き合うだけです。女として、淑やかさで見返してやるのが、賢い選択です。拳や刃など必要無いのですよ」
「……はい」
千代が薬箱を片付けていると、襖を叩く音が聞こえた。私の部屋を訪ねて来る者など、久秀様の使いの方の他に今まで誰一人として居なかった。不審に思った千代は静かに私の方を向いた。
私が頷くと、千代が「どちらさまでしょう」と襖の向こうにいるであろう人物へと声をかけた。何者か分からない以上、無闇に襖を開けるべきではない、ここは側室のみが住む二の丸、殿方が立ち入る場所ではない、ならばこの襖の向こうにいる人物とは女か、それとも……。懐からそっと扇子を取り出し、襖の向こうにいる者の返答を待った。
「私だ」
「「!!」」
決して聞き間違う事のない城主の声に、千代と私は驚いた。どうして松永久秀様が此処にいるのか、千代は慌てた様子でどうするべきですかと小声で私に聞いてきた。とりあえず無視するわけにもいかず、襖の向こうにいる久秀様に返事をしなければならない。
「松永様自ら、名前様の部屋にお越し頂くとは、急用でしょうか?」
「名前はいるかね? 病だと聞いているのだが」
「名前様は……」
どうしましょう、という表情の千代に、私は持っていた扇子を懐に戻し、「襖を開けて、千代」と答えた。
「しかし……」
「久秀様を廊下に待たすわけにはいきません、お通しして」
「はい」
千代がしゃがみ、ゆっくりと襖を開けると久秀様は部屋に入ってきた。千代は訪れてた城主に頭を下げた。
「久秀様」
「名前、はて、病と聞いていたが、随分と良好そうに見える。私の誘いを断る理由が他にあるというのかね」
久秀様は窓辺にと座り、己を見上げる私を視界に捉えるとゆっくりと近付いて来た。
「申し訳ございません」
「ふむ、言い訳なら一応聞いておこう、君が私の誘いを幾度もなく断ったのは何故か、病などという嘘をついたのは何故か」
「……。」
「答えられないというのかね、私に嘘をつき、それは私に対する謀略だというのか……」
私に近付いていた久秀様は、私の顔を近くで見た途端に言葉が消え去った。
「何だ、それは」
「……。」
「その頬の傷は何だ」
「これは」
何と答えるべきかと迷っていると、久秀様は私の前で片膝をつき、頬の傷をよく見ようと私の顎を上げた。目の前には怒ったようにも見える久秀様の表情が。その鋭い眼差しから逃げる事は出来ない。
「この傷は何だと聞いている」
「怪我を、してしまったのです」
「君の美しい顔に傷だと? まさか己でつけた傷とは言わないだろうな」
「私の不注意にございます」
「誰にやられた?」
「久秀様、この傷は自分で」
「いい加減にしたまえ、君ごときが私の目を欺く事が出来るとでも思っているのかね? これ以上私を怒らせるな」
「!」
久秀様は目を細め、私を睨むように見た。しかし私の頬に添えるその手はとても優しく、怒っているという久秀様の私に対するお気持ちが分からなくなっていた。
「どこの者だ? 名を言いたまえ、君の顔を傷付けたカラスはどこにいる」
「その者を、どうするおつもりですか」
「無論、始末する」
久秀様の言葉を聞いた千代は怯え、「ひっ」と息を呑むような声を出した。その声を聞いた久秀様は私ではなく千代の方を向いた。
「侍女、君は知っているのかね? この頬の傷をつけた者を」
「え……」
「(千代、言っては駄目です)」
目で千代に訴えた。
私の視線に気付いた千代は怯えながらも、私の意図に汲み取ったのか、無言を貫いていた。その様子は勿論だが久秀様に見られていた。
「ほう、君の侍女は随分と君に忠実のようだね、城主である私よりも君の指示に従う、と? これは傑作」
「久秀様……」
「どうしてだろうな、何故君はその者を庇う? 君の顔に傷をつけた大罪人だというのに、私に告げ口すれば復讐など容易い、なのにどうしてそうしないのかね」
「復讐など、考えておりません」
「ふむ」
「病などと嘘をついてしまった事、お誘いをお断りしてしまった事……どうかお許し下さい。どうしてもこの頬の傷を久秀様に見られたくはなかったのです、傷のある女だと、捨てられたくはなかったのです」
本心で思っていた事を全て久秀様に吐き出した。久秀様は千代ではなく、私の方を向いてくれていた。
「頬に傷、それで私が君を捨てると? 君はそんなくだらない理由で私の誘いを断ったというのか。確かに君の美しい顔はとても気に入っている、傷が一つあれば、それは美しいとは言えない」
「……。」
やはり、見切られてしまうのでしょうか。
久秀様は美しい顔が好きだと言っていたのだ、今の私はどう見ても美しくはない。
「だが私は君を手放す気は無い」
「え……」
「私に嘘をついた行為は断じて許される事ではない。だがその嘘も、私に今の姿を見られたくはないと、そういうものであったのならば、私は嘘をついた君を許そう。傷があるから捨てられると、そんな風に思っていたなど、君はなかなかに可愛げのある者だな、ますます手放したくはなくなった」
「しかし、傷のある女など」
「侍女よ、名前の頬の傷は治るものなのか」
「え? あ、はい。少し残るかもしれませんが、所詮は引っ掻き傷、目立つ程ではないかと」
久秀様に問いに、千代は慌てて答えた。
「そうか」
「千代!」
「申し訳ございません、でも、千代は悔しいのです、名前様のお顔を傷付けた者が憎いのです、悔しいのです」
「ふむ、素直な侍女だ」
「久秀様、申し訳ございませんでした。久秀様からのお誘いを、全て断ってしまうなど、私は」
「ああ、その事ならばもう良い。君の口からその理由は全て聞いたからね。君が病でないのならば安堵した。しかし困った……君の顔が見れれば良いと思って来たのだが、そうもいかなくなってきたようだ」
「と、言いますと……久秀様?」
そう聞く間もなく、私は畳の上に押し倒された。反動で閉じた目をゆっくりと開いて見れば、私の上にまたがる久秀様のお顔はすぐそこに。
「名前、人払いをしてもらえるかね」
「え……」
「人に見せる趣向でもあるのなら別だが」
「! ……千代」
私が襖の前にいる千代の名前を呼ぶと、千代は久秀様の行動に驚き、顔を真っ赤にしていた。千代がハッと気付き「失礼致しますっ」と言い、頭をこちらに下げてから慌てて部屋の外へと飛び出して行った。
千代がいなくなり、久秀様と二人きりになってしまった部屋、窓の外では今も雨が降り続いていた、だけどその雨音を聞いている余裕は、今の私にはない。
「ところで、君のこの傷を知っている者はどれだけいる?」
「千代と、久秀様だけ、ですが……」
どうしてそんな事を聞くのだろうか。
「ふむ、ならば君の傷を知る残りの者が大罪人という事になろう、見つけ次第、私が君の為にその者に処罰を与えよう、君の手を煩わせる事はない、安心したまえ」
「いえ、そのような事は……あの、久秀様?」
「何かね」
久秀様は私の乱れた着物から見える太ももを厭らしく撫でていた。男の人に触られるのは初めてだったので体を震わせた。
「私は、久秀様をお慕いしております」
「そうか」
「どうか、今だけは、私を見て下さい」
「良かろう、だが大罪人を許す君の心はやはり正気を疑うよ、私に願えば君は手を汚す事もない、なのにどうしてそうしないのか」
「私がその者を殺して欲しいと願えば、殺すのですか」
「処罰とはそういうものだ、君の美しい顔を引っ掻き、このように傷つけたというだけでそれに値する、君が大罪人の名を言えば私はすぐにその者の首をはねてやろう」
「……そうですか、ですが私は願いません、失うのは簡単な事です。人の命を粗末にしてはいけません、人あっての、この世です」
「やはり君は優し過ぎる、この世を壊すのも、汚すのも、所詮は人だ。君のその優しさはいつか身を滅ぼす、時には夜叉となるがいい」
「その方が久秀様の好みなのでしょうか」
「……。」
「では私は夜叉を目指しましょう」
「いや、いい。君はそのままでいたまえ」
そう言って、久秀様は私の口を塞いだ。
「……。」
「怯える事はない、何も此処で君を食おうとは思っていない、これでも私は場所選ぶのでね」
「そう、ですか」
ならば今は、久秀様の好きにして貰おう。