▼ ___7話、悲しむ顔は貴方に見せたくない
もうすぐ……雨が、降りそうね。
外から吹く冷たい風で、雨雲が近い事を感じた。雨音は嫌いではない。自然が作り出した、流れるような音色は汚れた心が洗い流されるようでとても落ち着く、けど此方に向かってくるあの雨雲は何か良くない事が起こりそうでもある。嫌な予感がする。
そう思っていると、次第にポツポツと雨が降り、雨は土の色を変えていった。まだ昼間だというのに、今日の景色はまるで夜のように闇に染まっている。
「(鉢屋衆は今頃……)」
ふと、故郷の里を思い出した。
住み慣れた鉢屋衆の里にはいつもたくさんの人がいた。父上や母上、そして兄上や鉢屋衆の仲間達、いつも誰かが近くにいて賑やかだった。怪我をした兄を心配したり、鉢屋衆の仲間達と一緒に修行をしたり、母の躾はとても厳しいものだったが、それでも毎日が楽しかった。
しかし此処は里とは違い、とても静かだ。
静か過ぎて、雨音がよく聞こえてくる。だからこそ鉢屋衆の里を思い出してしまう、この部屋の静かさにもう慣れてしまったが、思い出を忘れる事など出来ない。
雨音を聞きながら暇を持て余し、いつものように鍛錬場に顔を覗かせようかと思ったが、以前久秀様にそれは止められてしまったので行く事が出来ない。甚内様や鉢屋衆のみんなや、他の兵達ともう随分と会っていない。
「(今日は何をして、過ごそうかしら)」
扇子を開いて、ジッと見つめた。鉢屋衆の家宝でもあるこの扇子、何か考えたい時にこうして開くと頭が冴えるような気がする。
「名前様、何処へ行くのですか?」
「厠です」
「……先程も行きましたよね」
「そうかしら」
「私も付いて行きます」
「千代は部屋に居ていいのよ?」
「いいえ、名前様の事ですから、またお部屋を抜けて何処かへ行くおつもりなのでしょう」
「……。」
退屈だったので、こっそりと鍛錬場へ行こうとしていたが、疑ぐり深い千代には簡単に見破られてしまった。残念、けど私は行くのをやめたわけではありません。
疑う千代と共に部屋出て、薄暗い廊下を進み、そして厠を通り過ぎた。
「名前様、やはり向かう先は厠ではないのですね」
「ねぇ千代、千代は私を止める?」
「名前様はこれから何処へ行くおつもりなのですか、お部屋にいるように言われているでしょう? 向かう場所によっては止めざるを得ないです」
「さぁ何処かしらね、けどあの静かな部屋には居たくないの、ごめんなさい千代」
「鍛錬場に行ってはいけませんよ、松永様に言われていたではありませんか、あそこにいては怪我をするかもしれないと」
「そうね、見つかってしまえばまた久秀様に怒られてしまうかもしれません」
「ま、まさか、名前様は本当に鍛錬場に向かっているのですか?」
行ってはいけません! と、千代が歩く私の前に立ち塞がった。ここから先は行かせないと言わんばかりに両手を広げていた。千代は本当に立派な侍女になった、私の為にこうして止めようとしてくれている。
「さぁ、お部屋にお戻り下さい、名前様」
「千代……」
両手を広げて、廊下のこれより先に進ませないとする千代を見つめた。彼女は決してそこを動こうとはしない。
「名前様、お部屋は静かでとても寂しいのは分かります、けどどうかお戻り下さい、お願いします。退屈しないように私が一緒に居ますから、どうか」
「……分かったわ」
千代のお願いだというその言葉を、無視する事が出来なかった。これ以上、千代を私の我儘に付き合わせるわけにはいかない。寂しいあの部屋には居たくはなかったが、千代を困らせたくはない、千代の言う通り部屋に戻る事にした。
静かで寂しいあの部屋に戻る為、来た道を戻ろうと後ろを振り向いた。
「あらいやだ、そんな所で何をしているのかしら」
「……雪路様」
千代と部屋へ戻ろうとすると、廊下の後ろから同じ側室の雪路様が歩いて来た。彼女は私よりもうんと年上で、一番長く側室として城にいる。朝日様もそうだったが、彼女もまた正室に近い存在だ。背の高い彼女から見下ろされて、ひと睨みされてしまった。けれど私は彼女から目をそらしたりはしない。
「何かしらその目は? これだから子供は困るのよ、挨拶も出来ないのかしら?」
「失礼しました、雪路様」
「そんなんじゃいつまで経っても、身も心も小さいままよ? ふふふ」
「……。」
身長が低いのは関係ない事だと思ったけれど、それを口にしてはきっと雪路様の機嫌を損ねて面倒な事になってしまうので、口をきゅっと閉じた。
「それにしても、あんな事があったのに貴方は城から逃げ出さなかったのね、とても残念だわ、朝日があの日に死んでから死を恐れて二人も逃げ出したというのに……貴方も此処から逃げ出してもいいのよ? 我慢することないもの、だって久秀様は逃げた猫を追いかけたりはしないから」
「いいえ。私は逃げません」
久秀様に言われたのです「私の元から離れるな。私への裏切りは死と思え、私から逃げようなどとは思うな、考える事も許さない」と、だから私は何があろうと此処から離れはしません。逃げ出したりはしません。
「私は此処に残り、久秀様のおそばを離れません」
そう言うと、笑っていたはずの雪路様の表情がひゅっと凍ったように、冷たいものへと変わった。雪路様のその変化に、私は一歩後ろに下がった。
「……いつ久秀様とお呼びして良いと?」
「え?」
「あーもう、これだから躾のなっていない猫は困るのよ、無礼だというのが分からないの? 城主様のお名前をそう易々と呼んでいいわけがないでしょう?」
「久秀様がそうお呼びするようにと」
「は? あんたみたいな野良猫がお許しをいただけるわけないでしょう?」
「本当の事です、そうでなければ私はとうに久秀様に無礼者だと斬られているでしょう、お許しを頂いているからこそ私は今此処に残っているのです」
「そ、そんなはず……まさか、貴方が久秀様の茶室に呼ばれたというのは本当の話だというの? 貴方のような土に汚れた娘が」
「土?」
「だってそうでしょう? 鉢屋衆は他の兵士達の誰よりも土に汚れているっていう話じゃない、松永軍の特攻隊だか何だか知らないけれど汚い連中ね、貴方はその鉢屋衆の娘なんでしょう? なら貴方も土で汚れているのかしら」
「誇り高く生きる鉢屋衆、彼らは絶対的な強さがあるからこそ常に前線で戦うのです、土に汚れているのは誰よりも戦った証、汚れる事の何がいけないのですか」
「……貴方、久秀様と一緒に茶を飲んだくらいで私に意見が出来るとでも思っているの? 貴方は所詮は猫、土汚れた泥猫よ。ああ汚い」
「例えそうだとしても、私は久秀様のおそばにいたいのです、此処に居てはいけないのですか」
「本当に貴方って女は……生意気ね!」
「!」
雪路様が私の方へと手を伸ばしたかと思えば、そのまま振り下ろした。ピリッと頬が痛んだと思えば、千代が「やめて下さい!」と叫んでいた。
私は雪路様に頬を爪で引っ掻かれたようだ。突然の事に驚いてしまい、その場に座り込んでしまった私に千代が駆け寄ってくれた。
「大丈夫ですか名前様! 」
「あらあら、痛そうねぇ。いい気味だわ、けど大変ねぇ? もしかしたらその顔に傷が残るかもしれないわ。そうなればきっと、久秀様は傷モノの貴方を捨てるわね。だって顔に傷がある気味の悪い女なんて、おそばに置きたくないもの」
「雪路様、貴方は……」
「さようなら、土汚れた猫さん」
「……。」
雪路様は私を見下ろして嘲笑い、私と千代の横を通り過ぎて行ってしまった。
「名前様!? 大変、頬から血がっ!」
「……大丈夫よ」
「そんなはずありません! 我慢するのは名前様の昔からの悪い癖です!」
「そうね、我慢する事に慣れてしまったのかしら」
「どうして……名前様なら雪路様の爪を避ける事も出来たのではないですか、だって名前様はお強いです、なのにどうして名前様は何もっ」
「傷付ける事が正義ではないわ」
「ですがっ」
「私が我慢をする事で、場が収まるのならばそれで良いのよ。千代に怪我がなくて良かったわ」
「名前様……」
「ごめんなさい千代、手当てをお願いしても良いかしら」
「はい、部屋へ戻りましょう!」
千代に手を借りて立ち上がり、頬に手拭いを当てながら部屋へと戻った。千代の手当てを受け、引っ掻かれた頬には大きな布を貼られてしまった。
「どうしましょう……傷が残らないと良いのですが、まだ痛みますか?」
「少しね、けど大丈夫よ」
「けど、女の顔を引っ掻かくなど……雪路様は酷いお方です」
「仕方ないもの、きっと雪路様も久秀様をお慕いしているのよ。だからこその行動なのでしょう」
「だからといって許される事ではありません! 名前様だって松永様の事を」
「そうね、だから雪路様のお気持ちは分かっているつもりよ。誰だって久秀様のおそばに居たいもの」
「名前様は……優し過ぎます」
落ち込む千代に「手当てをありがとう」と言った。それでも晴れない表情の千代には困ってしまったが、千代は少し冷えてきたので暖かいお茶を汲んできます、と言って部屋から出て行った。
一人きりになってしまった部屋。
ふと、机の上に置いていた手鏡を手に取り、自分の顔を見た。そこには頬に布を貼った自分の顔が、大きく目立つそれは、とても良いものとは言えない。
「うーん……これでは、しばらく久秀様の前に出る事が出来ないわね」
こんな顔は、久秀様に合わすような顔ではない。こんな顔を久秀様に見られたくはない。久秀様は私の顔を美しいと言って下さった、けど今の顔は誰が見ても美しくはない。
これでもし傷でも残ってしまえばどうなるだろうか? きっと久秀はもう私の事を美しいとは言っては下さらないだろう。それだけならまだしも、雪路様が言っていたように捨てられてしまうかもしれない。だって顔に傷のある女など、殿方ならば誰だって好まない。捨てられてしまえば、もう二度と久秀に会う事も無くなってしまう。私を見て下さらなくなってしまう、そんなのは嫌だ。
「……。」
手鏡をひっくり返し、そっと机の上に置いた。こんな顔は見たくない。
見られたくない。
「名前様、お茶です」
「ありがとう千代」
けど千代の前ではいつもの笑顔を向けた。悲しむ顔など千代に見せたくはない、鉢屋衆は強さがあってこそ、鉢屋衆の娘である私も強くなくてはいけない。
だから涙は見せない。