変わった女。
媚びないばかりか、俺の態度が気に入らないと喧嘩を吹っ掛けてきた女。
そいつは、藤崎花音と名乗った。
『‥‥なら、楓と呼べばいいではありませんか』
俺の言葉に、正面に座る父が驚きの表情を見せる。
興味を示さない筈の事柄に、俺が自ら意見を述べた事から。
───ああ、これは夢だ。
楓に出逢って間もない頃の夢を見ているのか。
思えば、あの時に。
あいつに名を付けた時から、俺の中で変わったのかもしれない。
──楓
変わりゆく『色』を持つ葉の名。
緑から赤へ染まってゆく葉の名。
無意識に、籠めていた意味に気付いていれば──手放そうとしなかったのだろうか。
「父上、正気ですか!」
場面が移り───聞き覚えのある科白。
ああ、これは三郎兄上の声音だ。
楓を連れ平泉に出立する前日の夜。
雪国に訪れた短い夏の夜は、楓に言わせれば随分と過ごしやすいらしい。
と、この時の俺はどうでもいい事を思い出していた気がする。
「正気で楓殿を‥‥っ」
「落ち着きなさい、三郎」
「母上も何故お止めしないのです!娘と同様に扱うと仰ったのは嘘ですか」
兄上が激高している。
珍しいこともあるものだ、と隣を見遣れば鋭い視線が俺にまで振ってきた。
「四郎、お前もそれでいいのか?楓殿の了承もない。ましてや、佐藤に縁付いて間もない娘をそのような、」
「別に。悪くは無い話でしょう」
「何をっ‥‥四郎!」
「俺には三郎兄上の仰る事の方が理解出来ません。武家の女なら見知らぬ相手と婚姻を結ぶのも珍しくもない。逆に、あいつには願っても無い話じゃないですか」
淡々と事実だけを述べると、兄上が一瞬だけ黙り込んだ。
「だが、楓殿は‥‥っ」
知らぬ振りをしてはいるものの兄上の言いたい事は、父上も母上も勿論俺も気付いている。
『楓は佐藤家が引き取った娘』だから家の利益の為に使うな、と。
真の娘だと父上が言ったのは嘘だったのか、と。
何より、本人が知らぬうちに話を進めるのが許せないらしい。
「継信」
父上が諱を呼べば、三郎兄上は乱した姿勢を整えた。
「我等はあの娘を厭んで平泉へ送るのではない。無論、そなたの言いたい事も分からぬでもないがな」
「そうですわ。娘だと思うからこその判断です。御館には全てお伝えしております。あの子を無碍に扱わぬとのお言葉も頂きました。養女として迎えてくださるそうですわ。それに‥‥」
──九郎義経様がお相手ならば、申し分ないでしょう。
再び黙り込んだ兄上が何を愁いていたのか、今でも知らない。
俺はただ、面倒だから平泉に着くまで本人には伏せておくか、と溜息を吐いていた。
──場面が移る。
今度は雪の中。
平泉の長い冬の午下がり。
吹雪の翌日、嬉しそうなあいつが兎の様に跳ねていた。
くるくると袖を翻す。
何が面白いのか、白い地面を踏みつけては童女の様に歓声をあげていた。
俺が「風邪を引くから」と帰館を促しても、首は左右に揺れるばかり。
「平気!ほら四郎も一緒に足跡残そうよ」
意味が分からない。
「どうせまた雪が降って消えるのにさ」
「そしたらまた付ければいいよ」
「一人で?」
「ううん、四郎も一緒に」
全く意味が分からない。
「俺は暇じゃないんだけど。兄上‥‥はお忙しいから、御曹司か西木戸殿にでも頼んだら?」
「分かってない。冷めた四郎を無理矢理従わせるのがいいの」
「‥‥‥あんた、馬鹿?」
白い平泉の冬。
「だって私、四郎と居るのが一番楽しいから」
白い息。
溢れる満面の笑顔。
衒いも無く零れた一言をどう受け止めればいいのだろう。
俺の頭まで一気に染めた。
何処までも白く。
「四郎は?」
「‥‥‥俺は‥」
この白を、閉じ込められたなら‥‥。
今度は、雪が薄い茜に染まろうとしていた。
目眩程度の瞬間で、あの白から数日経過していた。
「‥佐藤家の皆は、すっごく優しいのにね」
西木戸殿に『佐藤一族(母上以外)は堅物』と称されたのが悲しいらしく、涙目で俺を見上げていた。
くだらない事で落ち込む必要などないと言ってやるつもりが、続く言葉にその気も失せる俺は、子供でしかなかった。
「此処に居ていいって‥‥私の、親代わりだって思えばいいって‥‥」
『いつまで遠慮する気だ』という苛立ちと、水面下で進む話を知らぬ本人への罪悪感。
ふつふつと湧いた感情に、気付けば心にも無い暴言を吐き、雪の中にひとり残してしまった。
森の奥地へと姿を消したあいつを探し回ったのは、罪悪感からだ。
見つけた。
けれど、駆け寄ることはしなかった──否、出来なかった。
俺が謝るより先に、声を掛けた人物がいたから。
その人が、昼間から兄上が探し続けていた御曹司だと知り、安堵と僅かな苦痛を味わう事になる。
‥‥‥泣かせてしまう俺よりも、いい。
そこには紛れも無い嫉妬が篭っていた。
この時点で漸く気付く。
俺が欲していたもの。
それは、もう手が届かない位置にある。
求めたものは、もうすぐ御曹司の手に渡るのだと。
──楓
皆が呼ぶのは、俺が付けた名。
──花音
俺だけが呼ぶのは、あいつ自身の名。
答えなら最初から手の内にあったのに。
触れた手の熱が何時までも冷めないのは、繋ぎ止めておきたかったからだ。
あいつを、離したくなかったからだ。
‥‥‥思いが届かぬなら、せめて守ろう。
幸いなのか、相手は俺など敵わぬほどの立派な人物だ。
家柄だけでなく、その人の大きさ、度量の広さが。
御曹司は決してあいつを粗略に扱わない。
それならば、俺は遠くで見守る。
いつまでも笑っていられるように。
傷付くことがない様に。
それでいいと思っていた。
‥‥‥失うその日が来る迄は。
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