「‥‥‥夢か」
鎌倉での夜は、この夢をよく見た。
緩やかな午刻の陽射しを受け、あいつ──楓は、気持ち良さそうな寝息を立てていた。
起こさぬ様に気を付けながらそっと指を頬に滑らせる。
「ん‥‥」
と小さく動く腕の中の身体。
それだけで、表現出来ない感情が込み上げるのを、楓は知らない。
大鳥城を出立してから、もう少しで一年年になる。
昨日は約一年越しの再会だ。
逸る心を抑えられたのか、否か。
それは今、疲れ果て眠る楓の姿で知れるだろう。
――叶うならばずっと傍に置きたかった妻が隣で眠っている。
源頼朝様──佐殿──に仕える武士の中には、妻子や一族を伴い鎌倉入りした者もいる。
だが、大抵は伊豆の頃からの佐殿直参の家来だ。
楓には話す間もなかったが、鎌倉における御曹司の立場は微妙なものになっている。
表立って揉めている訳では、勿論ない。
だが、『御曹司に仕える自分達が今、表立つのは控えるべきだ』──と、三郎兄上や弁慶殿、(伊勢)義盛殿などと話しあっていた。
それ故に、楓を鎌倉に迎えたいと願い出る事を半ば諦めていたというのに。
急に降ってきた話が、それを覆した。
「‥‥強力な助っ人登場、か。悪運だけは強いみたいだね、俺も楓も」
幾分幼く見える寝顔に囁く。
俺が今此処に居られるのは、御曹司と三郎兄上が佐殿に進言してくれたからだと、楓は思っている。
それは嘘じゃない。
‥‥ただ、最終的に佐殿へ進言した人物は別にいるだけで。
たった一言で佐殿をはじめ、家臣をも頷かせた御方、いわゆる『強力な助っ人』が。
静かで、穏やかなこの一時を甘受できる『悪運』に、複雑ながらも感謝の念を送った時だった。
「失礼致します」
足音の後こちらを窺う様に掛けられた声に「ああ」とだけ返す。
控えめに入ってきたのは、先刻大広間で四郎を抱いていた乳母だ。
名は『浅乃』だったか。
以前楓が、大鳥城で女房の立場に居た短い時間で出来た、数少ない友人だ。
楓と二人で話をしているのを、何度か見かけたから覚えている。
「楓様は、‥‥‥あら」
「まだ眠っている」
「随分とお疲れのご様子でしたから。四郎様にお会い出来て、安心なされたのでしょう」
「『四郎』はその子だろ?」
「あら、失礼致しましたわ、忠信様」
間違えたのはわざとじゃないのか。
そう返そうとしたが面倒なので止めた。
楓相手なら口論も楽しいが。
ころころと笑う乳母の腕の中で眠っている赤子が、今この城での『四郎』。
彼が俺の息子だと言われても、正直あまり実感はない。
「それで?」
「四郎様が目を覚まされましたので、お連れ致しました」
「起きてるの?そうは見えないけど」
「お抱きすると心地良いのでしょう。けれどまたすぐに起きられますわ。なので僭越ながら、親子水入らずのひと時をと思ったのですけど‥‥‥」
言葉を切り、褥で幸福そうな寝息を立てる楓に視線を移すと、乳母の眼差しが優しく緩められた。
姉が妹を愛でるような、母が子を包むような眼差し。
この乳母は、楓の性格をよく知っている。
俺が帰ってきたら楓が何を望むのか──その上で、勝手な判断と言いながら子を連れてきた。
俺と楓と四郎、三人で逢う事。
それを切望していたのは俺も同じ。
「‥‥分かった。楓、起きろ」
「ん‥‥あと一日」
「一日は寝すぎだろ」
「だいじょうぶ、あとで固めるから‥‥」
何をどう固めるのか謎だ。
子を産んでも相変わらず、楓は楓らしい。
能天気な寝顔に、不思議な思考。
志津が見れば眉を顰めるかも知れないが、俺はこれでいいと思っている。
「‥‥仕方ありませんわね。忠信様、四郎様をお願いいたします」
「あ、ああ」
四郎を受け取り、腕に掛かる軽さに驚く。
‥‥‥これが、赤子の重さなのか。
軽い。
それに、酷く脆い。
簡単に壊れてしまいそうだ。
受け取った俺が危うげだったのか、
「こうして首を支えて‥‥そう、お上手ですわ」
乳母は安定した抱き方を指導し満足に頷くと、息を吸い込んだ。
「さてと‥‥‥いつまで寝てるの楓!早く起きないと忠信様があんたのご飯食べちゃうわよ!?」
「──ダメっ!」
「‥‥‥」
何も言葉が浮かばぬ程に、絶句したのはいつ以来だろう。
大声ではないが腹の底に力の籠った乳母の声は、三郎兄上並みに良く通った。
男でないのが惜しまれる。
‥‥いや、注目するのは声ではなくその内容だ。
呆れる余り俺まで思考が可笑しくなったらしい。
乳母の起こし方も起こし方だが、楓も楓だ。
平泉に居た頃、楓の好物を横取りした事をまだ根に持っているとは。
「って‥‥あれ、忠信?私もしかして寝てた?」
「うん。凄まじく」
「凄まじくってどんな寝方よ。‥‥大体疲れさせた忠信が悪いんだからね」
「楓が体力ないんだよ。あの程度で根を上げるなんて」
「‥‥も、もうっ」
眠る前を思い出したのか、楓は頬を赤らめた。
それから視線を下に落とし、俺の腕の中で今の騒ぎにすっかり目を覚ました我が子に驚いたようだ。
「え、四郎?忠信が抱っこしてる‥‥‥と言うよりも、何で此処に?」
四郎の頭を撫でながらの楓の問いに答えたのは、俺でなく。
「私がお連れしましたわ」
「ええっ?‥‥あああ、浅乃いつから居たのっ?」
あんな起こされ方をしたにも係わらず、傍らに控える乳母の存在に気付かなかったらしい。
流石は楓だ。
「楓様がお目覚めになる前からですわ。おはようございます、楓様」
「おはよ‥‥‥だったら最初から教えてよ。忠信だけだと思ったから、恥ずかしいこと言っちゃう所だった‥‥」
「‥‥‥」
「さっき楓を起こしたの、俺じゃない」
「そうなの忠信?言われてみれば浅乃の声がした気もするような‥‥‥。と、それよりも浅乃?言葉遣い、いつものに戻してよ」
楓の言に、絶句していた乳母が我に返った。
「え?ですが‥‥」
「平気よ、忠信だもの。忠信、遠慮しなくていいよね?」
‥‥‥そう云う事か。
「ああ。楓の我が儘だって分かってるから、あんたも俺な遠慮しなくていい」
「‥‥ありがとう、ございます」
恐らく、『人目のない時に遠慮など不要』とでも言った楓は、寂しかったのだろう。
かつて同じ目線で話していた者に敬われ、気遣われ、守られる事に。
『浅乃』は、そんな楓の本心をぶつけられる存在だ。
感謝こそ覚えど咎める筈がない。
「‥‥‥忠信ならそう言ってくれるって思った」
俺の考えが伝わったのか、楓は嬉しそうに微笑んだ。
「ええと、それじゃあ楓、私は退がるわね」
「ゆっくりしていけばいいのに」
「私は忙しいの。それに忠信様に嫉妬されちゃうと困るもの」
「浅乃ってば!」
では、と退室してゆく乳母を視線で追う楓に、俺は溜め息を吐く。
流石にこれ以上は居辛かったらしい。
つくづく思う。
母上や志津、浅乃といい、この城には、楓に並みならぬ愛情を抱く女が多い。
‥‥‥まあ、女だけではないか。
「‥‥変なの。忠信は浅乃に妬いたりなんかしないのにね?」
「そう思うのはあんただけだろ」
「え?だって浅乃は女の子だよ?」
平泉に居た頃。
あの西木戸(藤原国衡)殿に、
『何故だろう。あの子見てると、頼られたくも、頼りたくもなるんだよ。あれは一種の才覚だよね』
と感嘆させた当人は、全く無自覚なのが末恐ろしい。
俺はもう一つ溜め息を吐きながら、母親によく似たのか泣き声一つ上げない四郎の頭を撫でた。
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