「別に驚かなくてもいいだろ。大変も何も、事実無根に決まっているじゃないか」

「そんなの分かっているわよ!御館がそんな事する筈ないってことは!」


そう、そんなの私にとっては疑うべくもない。
御館に対して私は、今も複雑な思いを残したままではあるけれど。

御館は、心底御曹司を思っていた。
息子のようにも、年若い主のようにも大切に育てていた。
それだけはあの短い平泉の生活の中でも、確信を持って言い切れる。
その御館が、御曹司の選んだ道を妨げる真似はしない。分かっているけれど。
ただ、それを飄々と告げる忠信が少し憎いだけだ。


「まあ、俺か兄上かと仰られた時点で、佐殿すけどのも確信なさっていた筈だ」

「そりゃそうだけど‥‥」

「佐殿は一見温厚だが、その目は鋭く聡い。それに思慮深い御方だ」


本当に疑っていたなら、きっと頼朝が最も信頼している御家人を使者に出す。

そう続けた忠信に、ならばどうして調べさせるの?と問いを重ねようとして、ふと思いついた。
もしかしたらこれは‥‥‥休暇なのかと。

三郎くんと同じように誰かが頼朝に、忠信の休暇をお願いしていたのだとしたら。
‥‥その人は。


「御曹司、が?」


自然に零れ出たその人の通称に、口にした自分の胸がきゅっと音を立てる。
瞼裏に浮かぶのは、飄々としたあの笑顔。
あの、優しい人ならば。
性格上、自分だけ休暇など決して受け入れない忠信の為にそれ位やってくれそうだ。
主から命じられればそれが名目上の事だとしても、受け入れざるを得ない忠信の性格を知っている。

三郎くんと勝負をさせたのも、後ろめたさを予め払拭させておく魂胆なのかも‥‥‥いや、そんなことないか。
恐らく、自分の娯楽の為だ。
あの人ならやりかねない。


「優しいね、御曹司も」


御曹司も三郎くんも。

そう続けようとした中途で、ぎゅうと強く抱き締められた。


「いたっ、‥‥何?」

「そんな話はどうでもいいから」

「どうでも良くないよ。御曹司は、‥‥って!忠信!?」

「もう呼ぶな、俺以外の名は聞きたくない」


不機嫌と言うよりも、何処か拗ねた声。
顰められた眉間。
この顔は、記憶の中にある。
確か、前に見たときは‥‥。


「あ、分かった。‥‥‥焼きもち?」

「‥‥‥」

「ちょ、いたたっ!もう!」


そうして腕にぐっと力が込められる。
これでは抱き締められると言うよりも、ホールド技だ。

図星だったんだ。

本当に‥‥嫉妬しているんだ、忠信ってば。


「ふふっ、可愛い」

「は?」

「嫉妬なんてしなくても、私には忠信しか好きになれないのに」


身を捩りながら思わずくすくすと笑ってしまう。

私を包む腕の持ち主が忠信なのが半ば夢のようで、まだ何処か信じられないでいたけれど、今になって漸く本物なんだと実感できた。


───そんな余裕めいた感情も、この時まで。


「‥‥‥楓さあ、そう言われて喜ぶ男が居ると思うわけ?」


低い呟きが耳を擽る。
あっと気付いた時には遅かった。
雰囲気がさっきまでの緩やかなものから、がらりと色を変える。
少し剣呑な色。
同時に忠信の表情も何処か不機嫌にも見えて‥‥‥けれどそうではない、形容しがたいものへと。


「ちょっと忠信っ!」


恐る恐る離れようとした私の腕を掴み、ぐいっと引っ張ると荷物の様に抱えあげられる。
そのまま歩き出す忠信に、嫌な予感が走ったのは言うまでもなかった。


「何?」

「何じゃなくて、ねっ!」


何処行くの?と聞くつもりが、答えはすぐに見つかる。
何故ならほんの数歩室内を移動しただけで、すぐに降ろされたから。

そう、褥の上に。


「た‥‥忠信さん?」

「腰上げて。帯が解けない」

「や、やだ、待ってってば‥‥!」


横たわった私の上に跨った忠信は、滅多にお目にかかれない爽やかな笑顔を浮かべていた。
袖口から覗くしなやかに鍛えられた腕が、着物の紐に伸びてくる。
それを阻止すべく、私は彼の胸をぐいっと押してみた。

忠信の手で解かれてゆく淡い紅色の袿は、婚姻を結んでから初めて彼から贈られたもの。
たまたま今日浅乃が用意してくれた。
ううん。偶然ではなく、浅乃派全て知って用意したんだろう。


「‥‥‥ん」


いきなり始まった桃色の空気に思わず声が漏れる。

恥ずかしい上に、随分ご無沙汰な行為だったりするから、緊張してしまうのも無理はない。
そんな私に気付いている筈なのに、顔を上げた忠信は真面目な顔で口を開いた。


「嫌なの?」


聞かれて、思い切り首を左右に振る。


「‥‥嫌、じゃない」

ただどうしようもなく緊張している私を、見抜かれるのが恥ずかしい。
そんな思いは、睨みつけたつもりの私の顔に出ているのか、忠信が嬉しそうに笑った。


「良かった。‥‥ねえ、楓」

「んうっ‥‥」


顔が近付いて、首筋辺りに触れる吐息にびくり、身体が跳ねる。
熱い息。
低く掠れた、ぞくりとする声音。

どうしよう‥‥逃げられそうにない。


「楓が此処に、俺の傍に居るって、実感させて」


その声は切なく掠れて、締め付けられた私の胸が涙を滲ませた。

いつの間にか肌蹴た胸元をほんのりと室内の風が撫でる。

逢いたかった──忠信の思いが、私の涙腺を呆気なく崩してしまう。

こんなにも想われて、こんなにも想えて、これ以上に幸せな事って他にないだろう。


「‥‥うん。忠信、大好き」


嫌だなんて、言えるはずもない。
私も同じだ。

他人から見れば感情も温度も伺えない常盤緑の瞳は、今は揺れている。
ほら、私の前ではこの人はこんなにも感情が豊かで───熱い人だ。
冷たく見えて、優しい人。愛情豊かな人。

指先を忠信の頬にゆっくりと伸ばすと、彼が小さく息を吐いた。


「‥‥俺も。ずっとあんたが欲しくて我慢してた」


隙間なく重なった身体の重みが嬉しい。

優しく名を呼ぶ声、暖かな手、離れても心を感じられる手紙も。

その全てが愛しいけれど、本物の忠信には叶わない。
一つになれた幸福感は全てを凌駕する。


「───んっ」


甘く、高く、叫びに似た自分の声が忠信の吐息と絡む。
吐息の熱さに釣られるように、頭の中が白くなった。

───全て押し流されてしまいそうな、心許ない感覚。

それが怖くて。
安心を得るために縋り付いたのは、今私を狂わせている人のしっかりと張った筋肉のついた背中。


「ん、楓‥‥!」

「‥‥お願い」


喘ぎながら、夢中で願いを口に乗せる。



お願い、忠信。
傍に居る。
ずっと、傍にいさせて。
何処までも着いてゆくから。

例えそれが、過酷な生の果てへと続く道だとしても。



甘い声で泣きながら切れ切れに紡いだ懇願に、忠信から返す言葉はない。

けれど、その度に激しくなる動きや声ごと飲み込んでしまうキスに───紛れもない彼の想いを感じて幸せだった。


 

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