「どうしたのよ、思い出し笑いなんかして」
「何でもない。そう言えば浅乃、四郎が起きちゃったの?」
午睡から目覚めたら教えてとお願いしていた。
だから起こしてくれたのかと確認すれば、その問いには首を横に振る。
「良くお眠りよ。そうじゃなくて、楓の事を御方様がお呼びなの」
「おと‥‥義母上が?何かあったのかな」
何だろう。
城主夫妻の私室を辞したのはついさっき、転寝する前だ。
もう一度呼び出されるなんて珍しい。
「ええと‥‥お呼びはお呼びなんだけど‥‥‥」
「浅乃?」
浅野は言い淀み、はあと溜息を吐く。何だか今日の浅乃は変だ。
「後でも良いって仰られたというか‥‥‥城内が騒がしい間は楓を部屋に引き止めておけ、と命じられているのよ」
「私を?城内が騒がしい間、って───」
どういう意味?
と聞き返そうとしたその時。
言葉を選んでいた浅乃が不意に顔を上げた。
「‥‥そうね、説明するまでもないようだわ」
「だから何なの?意味分からない」
「すぐに分かるわよ」
強めに言葉を重ねたけれど、暖簾に腕押し、糠に釘。
曖昧な笑みを返されるだけで、そして居住まいを正した浅乃はゆっくりと三つ指をつく。
「それでは、後の事は私にお任せ下さいませ。楓様はごゆっくり」
「だから浅乃!‥‥‥もう!」
‥‥‥畏まった言葉を残して部屋を出て行ってしまった。
正に、何だあれは?状態だ。
普段は律儀で真面目な浅乃が問いに答えてくれないなんて珍しい、物凄く。
それに、出て行く瞬間に見せた含み笑いが気になる。
「‥‥まぁ、そのうち分かるんならそれでもいいか」
浅乃の言葉に、流されてみるのも悪くない。
思えば此処に来てからというもの、私の知らぬ間に勝手に展開した事態に巻き込まれる───なんて、そう珍しくもないのだ。
平泉行き然り。
御曹司の許婚の件も然り。
抵抗も反論もする間もなく───と言うよりも、御曹司の件は他の選択肢を選ぶ余地がないと諦めていた。
拒めば佐藤家に不利になるのだと思い込んでいた。
そしてあの時、忠信も私を諦めるつもりだったらしい。
御曹司の側室という地位が、私を守ってくれる。
私が幸せになるのだろう‥‥忠信自身の手よりも、きっと。
今思えば、お互いに何て身勝手な『自己犠牲』だったんだろう。
諦めずに御館を説得するくらいの気概だって見せれば良かったのに。
忠信以外に考えられないと伝えれば、もしかしたら変わっていたのかもしれない。
けれど、『かもしれない』仮定の話をしても栓が無い。
そんな事はちゃんと分かっている。
流されて、悲しい思いもして、そして『今』を手に入れられたのだから。
どこか諦めに似た境地で小さな溜息を零しながら、私は大きく切り出した窓の外を見る。
窓の外に広がるのは、手に入れた『今』の世界。
冬は寒く厳重に木戸を閉める舘の山にも、初夏の風が吹いている。
生まれ育った神戸で考えれば四月末くらいの気温だと思う。
城の周りに豊かな木が眼に心地よく、風が優しく髪を撫でてくれる。
木の葉は、濃い緑。
深緑や松葉色に緑青色。
それから、唯一の愛しい緑色。
「‥‥‥やだな。病気みたい」
───常盤緑。
此処に存在するあらゆるものが、忠信に繋がる気がする。
何もかも、彼を指していて。
それが愛しくて寂しいと思う私はきっと病気だ。
元気でやっているんだろうか。
鎌倉はずっと暑いはず。
北国育ちの忠信と三郎くんが、辛く感じていなければいいのに。
初夏でも北国とは随分と違うはずだもの。
食欲落ちていないのか。
他人の気配に敏感な忠信が夜は眠れているのか、とか思いを馳せる。
‥‥寂しくなるのに。
「病気?楓が?」
そんな風に思いを馳せていた私の耳に、きしりと縁を踏む音と同時に聞こえた、その声。
「‥‥‥」
ゆっくりと振り返る。
目の前の光景が、信じられない。
「‥‥やっぱり、顔色があまり良くないな。薬師には見せた?」
いつの間にか入ってきていたらしい。
艶やかな黒を一つに束ねた人物が、部屋の入り口に。
「え‥‥」
華美では決してない着物は一年以上前に何度も眼にしていたもの。
相変わらずの仏頂面には、微かに心配の色が伺える。
何度も思い出しては恋しくなった表情、記憶にあるものと変わらない肩の線も。
何度も、何度も。
夢に出て来るほど焦がれている人が、そこに居るなんて。
「どうして、此処に‥‥?」
やっと口を開いた第一声がどうにも間が抜けていたけれど、これが精一杯だった。
後で思い返せば、余裕がないのは忠信も同じ。
いつもの彼なら一言くらい皮肉や呆れた溜息が返って来てもおかしくない、けれど。
「賭けてたんだ」
返って来たのは、答えになってない答え。
意味が分からないまま吸い寄せられるように忠信へと近付く私を、愛おしい熱が包んだ。
触れて、気付く。
言葉なんて要らない。
何も言わずぎゅっと強く抱き締めるその懐かしい腕が、速い鼓動が、私に教えてくれたから。
───逢いたかったのは、私だけじゃないと。
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