四郎の正室。
たった一人の女。

佐藤四郎忠信の、北の方。






「四郎‥‥」


夢にまで欲したもの、この人の隣にあれるその場所を、四郎は私に躊躇いもなく差し出してくれようとしている。

こんなに嬉しいことってない。

なのに、いざ彼の唇から零れてしまうと、咄嗟に返事が出来ない。


「私には釣り合わないんじゃないかな」


そう、何もない私には釣り合わない。
四郎が武家の生まれでなければ、言わなかったであろう答え。


「‥‥楓、何言ってるんだ‥?」


四郎は一瞬何を言ってるのか分からないとでも言う様に、目を瞬かせた。


「私、貴族でも武家の娘でもない。それどころか此処には親もいない」

「そんなの最初から知ってる」

「何一つ佐藤家にも四郎にも、与えられるものなんてないよ」

「それが?」

「だから、‥‥っ」


一度私は豪族の姫になった。

丁度年頃の娘が居ない藤原秀衡さん、つまり御館は、佐藤家に身を寄せた私を養女に迎えて。

それは奥州藤原氏の娘として、源九郎義経の側室に据える為。
奥州一帯と源氏との結びつきを、強くする為に。


貴族や武家の婚姻とは、家と家との繋がり。
身分は切って離せない。
そんなものだと思っていた。
実際に、歴史の本や授業でで学んだこともそう。
恋心で結ばれるケースなんて稀有。

そして、平泉での『楓』はもう死んでいる。

今の私は、何もないただの女。

実家もなければ、頼る家もない。
そんな私を迎えると当然の様に四郎は言ったけれど、そう簡単に事が進む筈もない。

基治さん達が納得してくれても‥‥‥家臣の人達が黙ってるとは思えない。


「‥‥私、ちゃんと四郎の傍にいるから。正室じゃなくたって、身分なんていらないから。それでもいいよ」


言っている内に気付く。

怖いんだ、私は。
いつか捨てられたら、と。それを恐れている。

帰る場所のない私だから、覚悟を決めたのに‥‥‥怖い。

こんな試すような言い方をして、四郎の覚悟を聞き出そうとしているだけだ。


馬鹿だね‥‥他の誰にも譲る気なんてないくせに。



「‥‥‥ふざけるな。家柄の優れた女が良いって、俺が一度でも言った?」



それは突然だった。

唇に触れたのは、長く震える吐息。
背中に回された力強い腕の締め付け。
頭をしっかり押し付けられた硬い胸から、伝わる速い音。


「言ってない、けど‥っ」



まだ言い募ろうとした私に、暗闇の中、四郎がふと笑う。
柔らかな息遣いが私の髪に掛かってくすぐったかった。


「誰も娶らないと宣言した俺が考えを変えたんだ。皆諸手を挙げているよ」


さっきの宴を見ただろう?

言われて、思い起こす。
楽しそうに酔って、顔を赤らめていた人達。
めでたい、ありがとう楓、と私の背をばしばし叩いていった家臣のオジサマ。

やたらと陽気だったからそんなにお酒が好きなのかなって思っていた。
そうじゃなくて、どんでん返しな出来事に喜んでいたらしい。


「四郎は、結婚しないつもりだったの?」

「‥‥惚れた女を守れなかった俺に、嫁ぐ人が哀れだ。そう思ったから」



‥‥‥惚れた女。



「‥‥私?」

「他に誰がいるんだよ」


嬉しい。

熱い吐息に乗せてそう問われて、視界が滲む。

夜具の上で寄り添う肌は暖かくて‥‥。

手放すことなんて出来ない温もり。


「もう諦めて、俺の正室になりなよ」

「‥‥うん‥‥嬉しい、四郎」



掠れた声で返せば、唇に熱が触れる。
四郎の熱に溶けしまいたくなった。



「ああそうだ。四郎と呼ぶのは終わりにして欲しいんだ」

「え?」

「もう俺の妻になったんだ。今から、俺の名を呼んで」


俺の名?

って、四郎は彼の名前だ。
他にどう呼べば‥‥‥って、まさか。

見つめた先の常盤緑が揺らめいた。


「忘れた?初めて会った時に呼ばせている筈だけど」

「た‥‥だのぶ?」

「うん」

「忠信‥‥なんかちょっと、恥ずかしいね」

「早く慣れれば?」


短く頷いて四郎、いや、忠信の手が私の肩をそっと褥に押し倒す。


『これから』の始まりの合図──
だと気付き、慌てて忠信の胸を押し返した。


「ま、待って!」

「‥‥まだ何かあるの」

「あ、あのね!私!私はね、これからも楓って呼ばれたいの」


どうして?と眼で問う忠信を見上げた。


「花音は、あっちの私。この名前が私の世界との繋がりを持つなら、私は」


お父さん、お母さん、ごめんね。
あなた達に貰った名前さえ胸に封じる、親不孝な私でごめんなさい。

花音は、生まれ育った世界での私。

この名を持つ限り、私はいつか帰ってしまうのかもしれない。


「楓がいい。ずっと楓って呼ばれたい。忠信がつけてくれた名前だから」


多分昨日の夜に聞き取れなかった彼の言葉も、同じ意味だと思う。

その証拠に、私の言葉にぎゅっと眉を寄せ、私を抱き締めたから。


「わかった‥‥‥楓」




かさなってゆく重みが愛しい。

肌を滑る手。
身体の線をなぞる唇。

思わず上がった自分の声が、こんなにも甘いなんて初めて知った。



愛しくて、熱が籠もってゆく。





「逢えて、良かった」



溢れた言葉は、どっちのものだったのか、判別付かないほどに溶けあって。












偶然という言葉では説明なんて出来ない出逢い方をした。

私は、あなたに出逢った。

出逢うべくして出逢う為に、私は生まれた。






佐藤四郎忠信という名の、光と。

 

 

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