三郎くんが部屋を訪ねてきたのは、その日の夜。


沐浴を終えた後、まだこの時代の流暢な草書文字に慣れない私は忠信に字を教えてもらっていた。
眠るまでの時間をこうして二人で過ごすのが、彼と夫婦になってからの日課。

文字だけでない。
舘の山の生活や、地形など。
何ヶ月か生活したとは言え、まだまだ知らない事が多いから。



「忠信、今いいか?」


私が一緒にいると知ってか、外から遠慮がちな声が彼の名を呼ぶ。
こんな時間にどうしたんだろう?


「どうぞ。お待ちしておりました」


首を傾げる私とは逆に、既に知っていたのか忠信が招き入れた。


「遅くなってすまない。楓殿も、申し訳ありません」

「ううん。私は全然構わないよ」


恐る恐るといった風体で室内に入る三郎くんの頬が少し赤い。
私が居ることに戸惑っているんだろうか。
だとしても、無理はない。

立ち上がり客人用の円座を用意すると、「かたじけない」と再び頭を下げて腰を下ろした。


「お茶の用意してくるね」

「いえ、楓殿もどうかお聞き下さい」

「でも‥‥」


こんな時間に訪れるのだから、大事な話でもあるんだろう。
それこそ、私が聞くべきでないような‥‥。


「いいから居なよ。あんたも聞くべき話だ」

「‥うん」


立ち上がりかけた身体は元の位置にすとんと落ちる。
正面の上座には三郎くん。そして私の隣に座るのは忠信。
こうして三人で座って話をするのは「昔」の大鳥城でお世話になった以来かな。

尤も、懐かしさに浸る空気じゃないんだけれども。


「忠信。楓殿は何処までご存知なのだ?」

「まだ何も。再会して日が浅いし、兄上がお帰りになるまで不確定な事を伝えたくなかったので」

「‥‥‥そうか。お前らしいな」


何を?‥‥‥ああ。

平泉で私が居なくなってからの話、だ。

此処に来てから今日まで、忠信は平泉の話題に触れなかった。
そして私も。
後ろめたさもあって、目を背けていた。

忠信も後ろめたいのかと想像していたけれど、どうやら違ったらしい。


「三郎兄上が戻られた事だし、あれから何が起こったのか話すよ。一度に話した方が面倒が省ける」


本当に、忠信らしい物言い。

私の事情と、平泉でのその後と。
そりゃあ一度に説明した方が手間は省ける。


苦笑する私の前で、三郎くんがやれやれと肩を落としながら口を開いた。

















私が居なくなって数日後、亡骸の無い、形だけの葬儀が行われた。

すぐに人払いがなされたといえ、あの場に居た者は誰もが「死んだ」と確信したほど。
血に塗れ虫の息だった私が、忽然と消えたなんて、公に出来ない。


藤原氏の養女であり源義経の側室、彼女の葬儀に立ち会ったのはごく一部の人物だった。


「それからすぐ、俺だけ舘の山へ戻ることにした。楓も知っている通りの理由だ」

「‥‥うん」


脳裏に再会した日の光景が浮かぶ。
私を襲った野盗が、鮮やかな銀の軌跡に倒れていった様を。
そういえば、平泉でも野盗の集団と戦っていたっけ。


「私はその後も平泉に留まりました。御曹司から仰せ付かった仕事もあり、少々調べ物もありましたので」


どうしてだろう。
どきどきと鼓動が激しくなる。


「御曹司の仕事‥‥って、前に話してくれたこと?」


平家を討てと命じた、以仁王の令旨。

桜の下で、御曹司と三郎くんが話してくれた。
源氏の子として自分も立ち上がるつもりなのだと。それが勤めだと。

もしその事で三郎くんが動き回っていたのなら、もうすぐ、なのだろう。


もうすぐ───『彼』の名が、世間を騒がせる。

動いてしまう。歴史が。


「それは、私から何も申せません」

「そ、そうだよね。ごめん」


三郎くんがふわりと笑う。

私が余程情けない顔をしていたのか、隣の忠信が頭を撫でてきた。


「心配するな。あんたが戦に巻き込まれることはないから」

「左様。平泉を落とさねば舘の山に辿り着くことも不可能です。それ故に、此処が戦場になることはまずありません」


どうやら戦そのものを怖がっていると思われたらしい。
私が平和な時代で生きていたと知っているから。


「‥‥ありがとう」


ねぇ、本当に怖いのは戦よりも‥‥‥。

その先は、言ってはいけないんだろう。
彼らの『未来』を知らせていいのか判別付かない今は、口にするべきじゃない。


「話が多少逸れましたが、‥‥‥平泉での仕事の合間を見つけ、足を伸ばした場所があります。何度か通い話を聞くに至るまで時間を要してしまいました」


その『話』を聞き終えた頃合で、乙和さんから忠信の婚姻を知らせる文が届いたという。


「それで?誰なのですか。本題とはその女の事でしょう?」

「女?‥‥あ!忠信が見たって言うあの女の人かな?」

「多分ね。そうでしょう三郎兄上?」


忠信の頭に浮かぶのは物見櫓から目撃したという人だろう。
見知らぬ女を連れていたと、そう言っていたから。

問いかけに、苦笑しながら三郎くんは頷いた。


「‥‥知っていたとはな。では、彼女が何者かは想像つくか?」

「門を潜られた時に見かけただけですが‥‥‥恐らくは」

「そうか」

「兄上が父上と母上の御前で何も仰らず、こんな夜更けに訪ねられた。余人の耳に入れられぬ事情とやらがある。となると、自ずと答えが見えます」

「‥‥‥ああ」

「そうなの?私にはさっぱり見当つかないんだけど」


二人の知り合いだろうか?

三郎くんの眼が忠信から私に移る。
そのままじっと見つめられて、少し狼狽してしまう。

‥‥‥何?

真剣な瞳は一瞬細められ、ふぅと息を吐いた。


「お前に会わせるべきと思ってはいたが‥‥まさか楓殿がいらっしゃるとは思ってもみなかった。これも縁なのか」


もしかして、私に会わせたくない相手だろうか。
三郎くんの様子から躊躇いが見て取れる。


「三郎くん‥?」

「‥‥いえ。今から呼びに参ります。暫しお待ち下さい」


立ち上がり私ににっこりと笑って、部屋から出ていく。

顰められた微かな足音が全く聞こえなくなった。
それから、隣で溜息が零れる。


「‥‥ねぇ、忠信」

「何?」

「もしかして疲れた?そんな顔してる」


疲れたのか、それとも、熱でもあるのか。

少し蒼い顔に不安を感じながら、体温を測ろうと手を伸ばす。
だけど忠信の額に届く前に止まった。

右手に感じる温かな体温。


「‥‥大丈夫だから」

「でも顔色が悪いよ。‥‥ちょっと休む?」

「いいって。ただ楓に触れたいだけで、‥‥‥って」

「え?」


しまった、と小さく呟く。
反対の手の平で隠す様に覆った忠信の顔は、今度は赤く染まった。

触れたい?私に?
それって‥‥‥そういうこと、だよね。


意味に気付いた私の顔まで、熱くなる。


「う、うん。私も‥‥そう」

「何が?」

「だっ、だから!一緒っ‥」

「一緒って何のこと?」

「───からかってるでしょ」

「別に」


眼が合うと、忠信はくしゃりと表情を歪めて笑う。

こんな顔されると弱い。
何でも言ってしまいたくなる。でも。


私の手首を包む忠信の手を、空いた一方の手でぎゅっと握り締めた。


「意地悪な人には絶対言わない」

「‥‥‥ふうん」

「優しくない人には、優しくしないんだから」

「そう」

「‥‥っ、だからっ、優しくして欲しいって言ってるの!」

「へえ」

「‥‥もうっ!」


私達の無意味な言い合いは、戸口に呆然と立つ三郎くんに(私が)気付くまで続いた。




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