軽やかな足音が聞こえたのは丁度、御曹司と初対面を装った再会が一段落した時だった。
「くろうおじちゃま!」
響き渡る、幼く明るい声音。
それと共に室内に小さな旋風のような童女が現れた。
「かえってらしたのね、おじちゃま!」
「まあ姫。廊を走ってはいけませんよ」
政子さんが軽く嗜めた旋風の正体は、大姫。
頼朝と政子さんの間に生まれた第一子で数え歳で五歳になる。
おかっぱで切り揃えられた黒髪は艶々としていて、魅惑のエンジェルリングが出来ている。
好奇心旺盛でくるりと動く大きな黒い瞳。そして黒が綺麗に映える色白な肌。
今から将来が楽しみな、それはそれは可愛いお姫さまだ。
そしてこのお姫さま、ちょっとおませでお喋りで、そして周囲の人を和ませる天才だったりする。
「はい、ははうえ。うめとかえでもこんにちは」
「こんにちは、大姫様」
にっこりと笑うから、私も自然と笑顔を浮かべる。
小御所に集う者だけでなく、御所に集まるどんな強面の武士も、この可愛らしい姫を前に仏頂面を続けていられないのだ。
「それより姫、ミチは一緒ではないの?一人で抜け出しちゃいけないと言ったでしょう?」
「あのねははうえ、ちちうえが『こごしょ』のなかなら、ひとりでみていいっていってくださったのよ。それからえーと‥‥‥ミチ、きょうはつくろいもの、してるって!」
「まぁ大姫様、また木登りなさって小袖でも破られたのですね?」
「う‥‥‥」
「それでミチが居ないと?」
宇目さんがしかめっ面で、でも眼は楽しげに煌かせながら問う。
「そうよ!ミチはいっつも、ちゅういばかりで、つまらない。ひめは、木のぼりとくいだから。へいきだっていってるのに、───ひゃあっ」
皆まで言い終える前に、小さな身体がひょいと浮いた。
大姫を軽々と持ち上げたまま立ち上がった御曹司は、小鳥の宿り木みたいに左腕へ座らせる。
「おじちゃま!」
小さな紅葉の様な手のひらを御曹司の頬に当てて、抗議の声を発した。
それはなんとも言えない微笑ましい光景。
政子さんと宇目さんが眼を緩めて見守っている。
「薄情な姫君。私に会いに来てくれたのだろう?喜ばせておいて放って置くとは、姫も随分とつれないな」
「あら、おじちゃまがわるいのよ?やくそくしたのに、ちっともあそんでくれないから」
「そうか。それはすまなかった。では早速明日でも遊ぶとしよう」
「ほんとう?」
‥‥‥まるで恋人同士の会話が却って微笑ましい。
御曹司、蕩ける甘い笑顔を浮かべている。姪っ子が可愛くて仕方ない、って顔に書いている。
子煩悩だったとは、ちょっと意外だ。
「本当だ。但し叔父ちゃまと約束してくれたらな」
「やくそく?なあに?」
「母上殿や女房の注進はきちんと受け止めること。その上で正しいあり方を考えるのが大人というものだ」
「うけとめるの?そうしたら姫もおとなになれる?」
「ああ、いい女になるぞ」
「ほんとう!?」
ああ、と優しく頷く。
それだけでおませな大姫は瞳を輝かせた。
流石は御曹司、女心をしっかり捉えている。
「姫のことが大好きで大切ゆえに意見する者の思いを、姫は感じてやらねばならぬ。守らねばならぬ。出来るか?」
怒るでもなく、嗜めるでもなく、約束という形で諭してゆく。
こんな言い方をされて、出来ないなんて言えない。
こういう時に彼の器を思い知らされる。
セクハラだけど尊敬せずに居られない人だ、セクハラだけど。
‥‥‥紫の上計画でも始める気だ、とかこっそり思ってごめんね。心の中で謝罪した。
「やくそくします、おじちゃま」
「いい子だ。ならば後で何をすべきか分かるな?」
「‥‥‥ミチにごめんなさいします」
「ああ」
「それからね‥‥‥」
小さな手が御曹司の肩をちょんちょんと叩いた。
その意図を理解した御曹司が大姫の身体を床にそっと降ろすと、彼女は母親の前に立った。
「しんぱいかけてごめんなさい。ははうえ、だいすきです」
「まあっ!‥‥‥姫、母もそなたが大好きですよ」
ぎゅっと政子さんに抱きつく。
いい子いい子と頭を撫でる政子さんの手や、信頼しきって母親に凭れかかる大姫の身体。
微笑ましい光景だ。
二人を見つめている御曹司も宇目さんも微笑を浮かべている。
「御台所様」
室の外から男の声が政子さんを呼んだ。
知らない人だ。
几帳に遮られて姿は見えないけれど、声からしてまだ若い武士といったところだろうか。
「‥‥‥何用なの」
「御所様がお呼びでございます。ただちに、と」
途端に空気が剣呑なものに変わる。
頼朝が呼んでいるなら、さっきの浮気事件の弁明でもするんだろうか。
‥‥‥もう少し時間を空けた方がいいと思うんだけどな。
政子さんの顔色が少し陰っているし。
そしてそんな主を宇目さんが心配げに見遣る。
このまま夫婦喧嘩が激化しなければいいんだけど。
あれこれと思考を巡らせている間に、抱擁を中断した政子さんと宇目さんが立ち上がっていた。
「大姫、母は御所へ出向かなくてはいけなくなりました。姫はお部屋へ戻っていてくれる?」
「‥‥‥おしごとのおはなし?」
「ええそうよ。今度は姫も御所へ行っていいか、お父さまに聞いてきてあげるわね」
「ほんとう?」
その言葉に、御所へは絶対に行ってはいけないと言い聞かされている大姫が嬉しそうに頷く。
「約束するわ。───楓、後は頼みます」
「はい。大姫様をお部屋までお送り致します」
「ありがとう。その後はもう帰って良いわよ」
「畏まりました」
大姫の表情が少し翳った。
大好きなお母さんに会いに来たのに、すぐに離れてしまう事を寂しく思っているのだろう。
「いってらっしゃい、ははうえ」
それでも笑顔で送りだそうとする健気さが胸を打つ。
まだ五歳、満年齢で言えば四歳か三歳か。
まだ甘えたい盛りの年頃だ。
私が大姫と同じ歳だったら、こんなふうに理性で感情を抑えたりなんて出来なかった。
「ならば義姉上、私も楓殿に同行しましょう。どうせ同じ邸に戻るゆえ、護衛も兼ねて」
「そうねぇ。この娘を一人で歩かせて、またあんな事が起こるのはご免ですものね」
「ちょっ、御台所様!?」
余計なことを言わないで欲しい。
「‥‥‥あんな事?」
最後に低い声で問うのは御曹司。
説明を求めるような眼差しを向けられたので、そっと視線を外して追求を逃れようと試みる。
流石の御曹司もそれ以上は尋ねなかった。政子さん達の居る場で『初対面の女』にかける言葉にも限界があると感じてくれたと思う。
‥‥‥後で問い詰められるんだろうな。
政子さん達が退室するのを見送りながら、私は溜息を吐いた。
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