昼間はまだ夏の暑さが続いている。
朝晩の気温の変化は著しく、それがもうすぐ秋なんだと感じさせてくれる。
真夏よりもマシだけれど、それでも外に出ればじっとりと額に滲む汗を軽く手で拭い、上空に浮かぶ眩いばかりの太陽を睨み付けた。
「朝露に咲きすさびたる鴨頭草の、日くたつなへに消ぬべき思ほゆ‥‥‥だな」
隣でずっと黙っていた御曹司が、呑気な声で歌なんて詠みあげた。
大姫を無事に送り届け、無表情のミチちゃんに引き渡してから帰路に着く。
大通りを歩くのは私と御曹司だけだ。
「月草を見れば秋の訪いを感じる。幼少の頃からそうだった」
だからなのか。
御曹司の口調から堅苦しさが抜けた気がする。
「つきくさ?聞いたことがないよ」
誰の目もない気安さから、私も以前のような話し口調に戻った。
「月の草と書いて月草とも呼ぶ。他にもその色から藍花、青花、縹草。花の形からは蛍草、帽子草などとも言う。あとはそうだな、鴨跖草。道端に咲いているその花のことだ」
御曹司が指したのは小さな花。
「これってもしかして、ツユクサ?」
「ああ、そなたは露草の名で知っていたのか」
そこにある、と聞かされるまで気付きもしなかったその青。
けれど眼で捕らえてしまえばほっこりと心を和ませてくれるような、馴染みのある花だった。
それこそ、幼い頃から知っている。
小学六年生までは、夏休みになると一ヶ月位おばあちゃんの家で過ごした。
ひとりっ子だった私には、従兄弟達が集まって川や山で遊ぶのが楽しみだった。
一日中、走り回って笑って泣いて。
「懐かしいなぁ。月草は祖母が好きだったの。夕方には花がすぼんでしまうから残念ね、っておばあちゃんよく言ってたっけ」
「そなたは祖母上に懐いていたのだな」
「うん。おばあちゃんっ子だったよ」
私が生まれる前に亡くなった祖父の分まで、私を可愛がってくれた祖母。
『やりたいことなんざ自分で見つけるもんさね』が口癖で、若かった母が初めて父を連れてきた時も、反対する祖父や叔父を説得したのは祖母だった。
後悔する生き方だけはしないように───私にそう言ってくれたのも、今みたいなじっとりと汗ばむような日だ。
生まれ育った世界を捨てた私。
恐らく、両親や祖母に、忘れられただろう私。
それでも思い出だけは変わらずに輝いている。
「楓」
呼ばれた名の切なさに顔を上げる。
そして驚いた。
もう驚きすぎて咄嗟に声も出ない。
何とか静止させたいのに、硬直してしまった。
「‥‥‥私の所為で、辛い思いをさせてしまった。すまない」
───御曹司は土下座していた。
重苦しいものを吐き出す様な口調に、どれ程自分を責めていたのか知る。
「本来ならば私が受けるべき咎であったものを、代わりにそなたを犠牲にした。そなたから命を奪い、あいつから最愛の者を取り上げたのは私だ」
「‥‥‥違うよ」
忠信も自分を責めていた。
あの時。
命が消えようとしていた平泉で、私の傍に居られなかった事を責めていた。
守れなかったと。
ただ、忠信は謝ったりはしなかった。
悔いる言葉の代わりに、いやそれ以上に、私を大切にしようと頑張っている。
馬鹿ね、って思わず抱き締めて宥めたくなるくらい、忠信は私を守れなかったと今でも悔いている。
「若桜がそなたの傍に仕えているのを知りながら、狂気に気付いてやれぬまま‥‥‥あの娘を闇に堕とし、結果として守ると決めたそなたを守れなかった」
そして、御曹司も。
私が『死んだ』のは、自分の所為だと。
そうして自分を‥‥‥あの日から責めていたの?
「殺したのは私だ。私の油断が殺した。そなたは恨んでくれていい、責めていい」
「御曹司‥‥‥」
「ただ命だけは源氏の世を築くまで待って欲しい。それ以降ならば構わぬが。命以外ならば、何でもしてくれていい」
「顔を上げてよ、お願い」
「出来ぬ。私は、あの時妻を殺した。何の咎もない伴侶が死に逝くのを見ているだけだった。その罪を償わせてくれぬか」
「罪だなんて。‥‥‥厳密に言えば妻なんかじゃなかったのに」
恨むとか、憎むとか、もういい。
恨んだところで誰も楽にならないし、憎んだところで自分が苦しいだけだ。
私の中にもまだ癒えない傷はある。
あれから”女房”という存在が怖いし、女の人に近付かれると身体が硬直する。
刃物を触る時も動悸が上がるし、本当は懐剣を持っているのだって嫌だ。
けれど、それが何だというのか。
忠信と生きられるなら、トラウマなんて大した事ない。
頑張って乗り越えようと思える。乗り越えてゆける。
「私は御曹司を恨んでいない。それとも御曹司の眼にはそう見える?」
言葉に一瞬間を空けて、「‥‥‥見えぬ」と低く呟く。
その表情はさっきと同じ。
‥‥‥ああそうか。
歯痒くて唇を噛んだ。
今やっと気付いた私は愚かなのだろうか。
この人を、いつの間にか『英雄』だと思っていた。
源九郎義経だから、源平合戦の英雄だから何でも出来る人だと。
傷付いても立ち上がるスーパーマンみたいな人だと、勝手に決め付けていた。
───今、目の前で膝をついているのはただの人だ。
罪悪感と情の狭間で苦しむ普通の人。
前 *戻る* 次