自分の命は自分だけのモノじゃない。
母親にまでなったくせに、こんな簡単で大切なことをちゃんと理解できなかったなんて。
‥‥‥情けない。
ごめんね、四郎。
こんな情けないお母さんでごめんね。
けれど、もう分かったから。
───此処で、この場所で、私が成すべきこと。
黄昏れ始めた空を背に邸の門を潜った。
明日からもっと早く帰れるようになるらしい。
今朝の一件で政子さんが色々と心配してくれた結果だけれど、正直戸惑った。
女房でも客人でもない。
ただでさえ、私の立場はあやふやなのだ。
‥‥‥政子さんは私をどうしたいんだろう。
「お帰りなさいませ」
「はい、ただいま帰りました」
主の居ない邸に入れば、邸の女房さんが出迎えてくれた。
天涯孤独な所を御曹司に助けて貰ったという丁寧な物腰の彼女が、三人の女房さんの中で唯一まともに話せるのだ。
残りの二人は普段から滅多に顔を合わせない。
親しく話をするなんてとんでもないといった空気だし。‥‥‥尤もこれは小御所に通い出してから、そんなものだと知った。
ぱたぱたと忙しなく走る彼女に軽く会釈してから、先に帰っているであろう忠信の待つ部屋へ足を運ぶ。
───居た。
「ただいま、忠信」
入り口に背を向け、文机に向かったまま「うん」と素っ気無い一言。
怒っている様子でもないけれど‥‥‥どうだろう。
急ぎの手紙だろうか?筆を止めることもない。
邪魔しちゃ悪いかな。
「座れば?」
踵を返そうとすれば、タイミングよく声がかかる。
まるで、背中に眼が付いているみたいだ。
「邪魔じゃない?」
「あんたを邪魔だと思う筈がない」
「‥‥‥そっか」
愛想もないたった一言で、一気に浮上する私の心は本当に単純だ。
何処に座ろうかと部屋をぐるりと見回して、一番居心地の良い場所に腰を降ろした。
「‥‥‥重いんだけど」
「失礼な。でも我慢してね」
忠信の真後ろに正座して、背中からぎゅっと抱き締める。
こうするのも随分と久し振りな気がする。
また少し筋肉が付いたのかな。
背中に頬を寄せて、しなやかな筋肉越しの心音を聴く。
相変わらず振り向く気配はない。
けれど、私を振り払おうとも、離れてくれとも言わない。
この体勢でいてもいいみたいだ。
私がこの温もりを恋しがる様に。忠信も私を失えないと思ってくれている。
昼間の三郎くんが教えてくれた事実に、改めて涙が出そうになった。
「‥‥‥忠信」
「なに」
「ごめんなさい」
この言葉を予想していたらしく、僅かでも背中が強張ったりしなかった。
「心配掛けてごめんなさい。無鉄砲に飛び出してごめんなさい」
「‥‥‥」
「私、自分の事ばっかりで、忠信がどんな思いでいたのか想像も出来なかった」
みっとも無く声が震え、低く掠れた言葉尻。
それらに勘付かれない様に、さらにぎゅっと抱きつく。
締め上げると言っても過言じゃない。
「ごめんなさい。‥‥‥もっと自分を大事にする。もう二度と、忠信が私を失くさないように、頑張って自分を守るから」
死の間際に眼にした、苦しそうな瞳が脳裏に焼きついて離れない。
あんな顔をさせたのは私だ。
最愛の人を苦しませたのは私。
そして、二度とあんな思いをさせない為に『私』を守れるのは、他の誰でもなく私自身だ。
‥‥‥強くなろう。
自身を守れる術も、困難を切り抜ける為の知恵も、身に付けたい。
我慢していた涙が溢れて、忠信の背中に付けない為に、頬を離して俯いた。
膝に涙が零れ落ちて、濃い染みを作る。
そんな私に気付いたのか忠信が微かに身じろきしたのが分かった。
「‥‥‥俺は、楓が思うよりずっと身勝手だよ」
溜息を吐き出すように紡がれた声。
「俺の命は御曹司に捧げている。あの方の手足として生き、死ぬ時はあの方を守る為に、敵の刃を受けて死ぬつもりだ。恐らく二度と舘の山に帰ることはない。‥‥‥その覚悟で、俺と兄上は旅立ったから」
───知ってる。
歴史に残るあなた達の生き様がまさしくそうだったから。
でもそれは言えないから、代わりに微かに頷きを返す。
「きっと俺は、楓を置いて逝く。泣かせるよ」
うん。
きっとこの人は、私を残して死に逝く。
最期まで彼の生き方を貫いて。
その『時』を受け入れられるのか。今の私には想像するだけで凍りそうだ。
「それなのに‥‥‥俺はさ、あんたが先に死ぬのは許さない」
忠信が動いた。
がっちり抱きついた私の手を優しく解き、そうして向きを変える。
俯いた私の頬は、忠信の両手で持ち上げられた。
「だから俺は身勝手だ」
「ううん」
忠信が言っているのは、この時代の武家に生まれた者なら当たり前のことだ。
男は家名の為、主君の為、領地の為に戦う。
無様に生き抜くよりも、名を上げて死ぬことが誉れなのだ。
忠信はただ、私の時代での価値観に合わせてくれている。
だから自分を『身勝手』だと言う。
「優しいよ、忠信は」
「優しくない」
「‥‥‥分かってないなぁ」
優しくなければ、こんな風に私のことまで心配しないんだよ。
自分が死んだら私が泣くだろう、って案じたりしないんだよ。
忠信の手が私の頬をゆっくり撫でる。
私の体温を吸い取るようなひんやりと冷たいその手のひら。
‥‥‥手が冷たいのは心が暖かいっていうのは当たってると思う。
「ねえ楓」
「うん?」
「景季に触らせただろ」
「かげすえ?‥‥‥ああ、源太ね。あれは触らせたっていうか、私が掴みかか、って‥‥ごめんなさい」
諱で呼ばれるとどうもぴんと来ず、源太と呼んだ私を不機嫌そうに忠信が睨んだ。
あの時の冷気はやっぱり嫉妬だったのか。
顔ひとつ分開いた距離を私から埋めると、常盤緑の瞳が大きく見開かれた。
こんな顔が見られるなら、たまには私からキスをするのもいい。
「嫉妬してる?」
「は?」
くすくす笑いながらの私の言葉に、忠信は眉間に深い皴を寄せた。
かと思うと、ふと思い付いたように唇の端を引き上げる。
「‥‥‥そうだよ」
「え?ええ?」
「嫉妬させる楓が悪いよね。という事で」
「ちょっ‥‥‥あ、ええっ?」
責任取れ、と耳元で囁く声がほのかに掠れていて、気が付けば背中が床に押し付けられていた。
「あの、ちょっと待って、まだ早‥‥っ」
何はともあれ、久々に二人で過ごす時間は甘かった。
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