「兎に角、藤崎がこっちに来たのは高三の秋なんだよね?」
「うん」
「そうか。‥‥‥うん、学校でも生徒が行方不明だっていう話も出てなかったし、当時にそんなニュースもなかった筈だよ」
腕を組みながら言う。その陰に偽りは見受けられない。
「僕だけじゃなく、僕の彼女ですら君の事を覚えていないと思う。彼女と付き合ってから君の話題が出たことないから。‥‥‥そうなるとね、誰も君を覚えてない確率が高いよ」
「‥‥‥彼女?私の知ってる人?」
何故そこに隆也の女が出てくるのか。
そう問いたげに楓が顔を上げた。
「あれ?名前言ってなかった?」
「聞いてない。誰?」
「確か藤崎の幼馴染みだった筈だけど‥‥‥『カヤ』」
「──っ!?」
「相田花耶。ずっと好きだった子だよ」
楓の時間が止まった。
───やっと眠ったか。
腕の中にいる妻の穏やかな呼吸。
乱れた褥を直そうと半身起こしかけたものの、楓の手が俺の襟を握り締めて放さない。
思わず笑い、頭の下に手を入れて抱き寄せた。
楓はこうなったら朝まで起きない。
先程までの行為が名残を残す室内は、まだ熱気を残している。
羽織っただけの夜着から覗く胸元も。
東国の夏夜だから、すぐに身体を冷やすこともないだろう。
汗が引くまで待ってから、薄手の掻巻でも掛けてやればいい。
俺はそう考えて、楓の顔を隠す髪を払い、頬を撫でて寝顔を眺めた。
「‥‥‥カヤ、か」
その名を聞いた瞬間から、楓の様子がおかしかった。
幼馴染みで親友だった、と聞いた。それ故に彼女の身を心配しているのか。
だが、心配だけで片付けるにはあまりにも力無く項垂れていた楓の様子が引っ掛かる。
『大丈夫だよ和泉。‥‥‥カヤは生きてる。きっと、会えるから』
殆ど太陽が沈んだ由比ヶ浜。
暗やみ、紺がかった空の下、言い切った楓の眼は確信めいた何かを宿していた。
隆也の探している娘が幼馴染みだと知った瞬間、『生きている』と断言した楓は、一体何を知っているのか。
「隆也をあまり近づけない方がいいかもしれない」
楓が不安定になるならば。
隆也が楓と同郷───同じ”未来”からやって来たのだと知ったのは今日。
驚きながらも何処かで納得していた。
出逢った時の隆也は、刀の扱いが稚拙だった。
真剣の刃を恐る恐る眺めていた姿が印象に残っている。扱う事を恐れていた。
俺と同じ歳なのに、武器一つ満足に扱えない。
そしてそのことを本人は隠そうともせずに、鍛錬場にたまたま居合わせた俺に師事して欲しい頼み込んだ率直さ。
人を斬ったことのない者なら、鎌倉にだって居る。
まだ初陣を済ませていない者などがそうだ。
俺も鎌倉へ来る前まで戦なんて経験していない。
けれど夜盗の討伐に当たっていたから、他人の血を覚えている。
───武家の嫡子に仕える武士が、刀を『初めて手にした』なんて聞いたことがない。
だから違和感を覚えていた。
初めて逢った時の楓と、似ている空気。
そうだ。似ているが故に、揺らぐ。
「‥‥‥本当に馬鹿だよね、楓は」
疲れただろうから今日は休ませてやろう。
初出仕だった今日は体力を酷使して疲れた筈だ。
体力だけでなく、気疲れだって相当なものだろう。
そう思っていた俺に、邸へ帰ってから泣きそうな表情で誘ってきたのは楓だ。
『───放さないで』
縋る声。
不安を抱える必要はない。
手放すつもりなんか絶対にない。
例え、あんたが望んでも。
俺の声は伝わっただろうか。
「おやすみ、楓」
───夜が明けるまで、抱き締めているから。
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