由比ヶ浜で夕日を見てから慌しく一週間が過ぎ、鎌倉での早い朝もにようやく身体が着いてきた。

二年も館の山に住んでいれば、早起き生活に慣れているつもりだった。
けれど鎌倉の朝はもっと早い。
流石に夏場の夜明け前‥‥‥午前四時くらいだろう、起床は堪える。

極度の緊張や気疲れもある。
それも重なって最近、邸に帰った後はあまり覚えていない。いつの間にか眠っているのが現実だ。


それでも、忠信と三郎くんはもっと多忙で、もっと早起き。

私が起きた時は既に邸から出ているし、帰ってくるのは疲れ果てて眠ってしまった後。
褥に形跡があるから一応隣で寝てはいるらしい。

起こしてくれていいのにと思うけれど、私に気を使ってくれているようで。

‥‥‥気遣いが嬉しい反面、寂しいと感じてしまうのは我儘なのかな。


「‥‥ん?」


つらつらとそんな事を考えながら、寝惚け瞼を擦って通勤‥‥‥いや出仕する為に歩いていたら、『事件』は起こった。











空気がおかしい。

そう思ったのは顔馴染みのお爺さんを見つける前だった。
いつもいい笑顔でおはようと挨拶してくれるお爺さんが、今日は私に気付かずに血相を変えて走り去ってゆく。
何かあったのだろうか?
お爺さんが居た方向を再び見遣り、ようやく『違和感』の正体に気付いた。


「喧嘩?」


この辺は酔った挙句の喧嘩なんてよくあるから。

それにしてもおかしい。
こんな早朝にこの騒ぎなんて。
ちょうど前方の路肩、家と家の間の小さな路地に人だかりが出来ていた。

酔っ払い同士の喧嘩なら関わるべきじゃない。
そんな判断を下した私を嘲笑うかのように、騒ぎの中心でどよめきが大きくなった。
何が起こったのか誰彼なく尋ねている声とか、男の怒鳴り声、それから‥‥‥。


「きゃあ!」


騒ぎの奥、微かに聞こえた甲高い悲鳴は女の人のものだ。

足を止めた私の視界に、隙間が出来た人の垣根から『それ』は見えた。

腰を抜かした町人らしき女の人。
彼女に向かって、武士らしき男が柄に手を添え───今にも抜かんとしているその瞬間を。


「駄目!」


気が付いたら夢中で叫んでいた。


「‥‥‥何だ、てめぇ」


───しまった。
その声の鋭さにふと我に返って血の気が引く。
いつの間に、刀の前に立ちはだかっていたのか。

ああもう、私の馬鹿!

今の私は、三郎くんから護身用に借りている懐剣しか装備していない、つまり丸腰とほぼ変わらない状況。
得意とまで言えないけどそれなりに扱える弓矢なんて、当然だけど持っていない。
持っていても、こんな町中で矢を番えるなんて無理だ。

明らかに不利な自分の状況を忘れ、思わず飛び出した無鉄砲さを反省した。
素手で刀持った武士に勝てる訳ない。
さくっと返り討ち間違いなしのこの状況。


「おい餓鬼、こいつと関係あんのか?」


‥‥‥こうなったらもう、腹を括るしかないよね。

同じ場面を何度繰り返しても、きっと私は同じ様に動いていた。
だって刀を向けられている人は、女、弱者だ。

うん、そうだ。不可抗力だよね。

「弱い者いじめを見ていられなかった」と弁解すれば、忠信も絶対に分かってくれるかもしれない。
きっと理解してくれる。多分。‥‥‥恐らく。

‥‥‥やっぱり怒られるかな。

普段淡々と喋る人ほど、怒らせたら竦み上がるほど怖いのだ。
彼がむっすり黙っているうちはまだいい。
まだ、ボルテージは振り切れていないから。

本気で怒ると、眼がすっと冷える。
綺麗な無表情に眼だけが鋭くて、冷気を纏いながら、怒鳴るでもなく淡々とひとつひとつ事実を確認してゆくのだから。

もし戦場だったら、あの眼で迷いなく敵を斬り捨てているんだろうか。
難なく想像つく氷の眼を思い出すだけで、身震いを覚えた。

あれは怖い。
今起こってるピンチよりも、先のピンチの方が断然怖い。


「おい!聞いてんのか!?」

「‥‥‥え?」


吼える声に数回瞬きをする。
我に返ると鋭い視線が私に向けられていた。


「私?」

「てめぇ以外に誰がいるんだよこの糞が!」

「す、すみません!」

「さっきからこいつの関係者か聞いてんだ、さっさと答えろ!」


どうやら考え込んでいる間に男を更に怒らせたらしい。

関係者?
ああ、後ろに呆然と座ったままの女の人との繋がりを聞かれているのか。


「赤の他人です」


どう答えたものか考えたのは一瞬だけ。
此処は正直に答えるのが最善だ、と心に誓って顔を上げた。


「あ‥‥‥」


こちらを睨みつける漆黒の強さに息を呑む。

───鷹だ。

男は深い黒の眼の持ち主で、銀にも見える灰色の髪を無造作に遊ばせていた。
朝日が照らす部分が明るい銀にも見える。
けれど、実際は燻し銀に近いくすんだ灰色だと思う。
こんな時なのに、綺麗だと見惚れそうになる髪の色。

容姿だって整っているといってもいい。
確かに、忠信や御曹司の様な美形とは種類が違う。
どちらかと言えば平泉でお世話になった国衡兄上みたいに、精悍なタイプ。

年齢は‥‥‥私と同じか、何処となく幼さも残っている気がするから、もっと若いかもしれない。
背は忠信と変わらないか、それ以上か。
肩幅はがっしりとしていて、袖から覗く手首の節が男らしさを訴えている。

ただ、その鷹や鷲を思わせる獰猛な眼が、せっかくの容姿を台無しにしていた。

勿体無いな。
顔だけなら昔の私の好みど真ん中だったのに。

‥‥‥あくまでも「昔の好み」であって、今の私が好きな顔は違うからね、忠信!


「‥‥‥お前、女だったのか」


この一言で、相手もまた私を観察していた事に思い至る。


「‥‥‥は?」


ダメ、言い返しちゃダメだ。
忠信に怒られる方が怖いんだから、穏便に済ませなきゃ。
たった今大人しく従うって決めたんだから。


「邪魔してきやがって、どんな餓鬼かと思ったけどよ」

「が、餓鬼!?」


こう見えても私は人妻で一児の母なんだけど。

‥‥‥いや違う。
人妻で母なのは違わないけど、今の争点はそこじゃない。
ついうっかり素を出してしまった。
大人の女は余裕を持たなくちゃ。いけないいけない。


「しっかし色気ねぇ女だな。ここまで皆無な女は初めて見たぜ」

「なっ‥‥‥」


落ち着け楓。
大人の女らしく、穏やかにスルー出来る筈だ。


「まさかお前、女の武器使って俺を止める気だったとか?だとしたら傑作だな」


スルーだ楓。
無視無視‥‥‥。


「そうだ、白拍子にでも色気を習って出直して来りゃいい。ちょっとはましになるだろう。そうなったら俺が相手してやらなくもない」

「───なくて悪かったわね」


げらげら笑い出した鷹みたいな男、略して『鷹男』を前にして私の中でぷっつんと切れた。
そう、堪忍袋の尾的なものが。

 

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