館に住まう女房ですら滅多な事では踏み入れないこの場所へ、乙和は怯えるでもなく足を踏み入れる。
予め、華美ではないものの品のある上衣を脱ぎ垣根に掛けるという、慣れた様子すら見せて。
実際彼女には恐れなどない。
何故なら此処は、唯一の息抜き場所だから。
特に椿が好きだった。
何年経っても、いつ通っても、この場所で重たげに咲く花の美しさは奥州一だと思う。
誰も手入れをせず、誰の手も借りず、気ままに葉を広げ花を咲かせる。
この場所を愛しているのは、秀衡と乙和の二人だった。
「縁談が決まったそうなの」
相手は藤原氏の家臣だとか。
何とか家の某殿だ、と父から名を聞かされた気がするが、気も漫ろだったのではっきりとは覚えていなかった。
この時、乙和子は十八歳。
この時代の娘の婚姻は早くて十二、三歳。概ね十五、六歳にもなると婿を取る。
十八というのは曖昧だ。
別段、婚期を逃し程でもないが、さりとて適齢期という訳でもない。
尤も、更に歳を重ねていたとしても、乙和子には焦る様子を見せないだろう。
「一生、決まらなくて良かったのに」
そればかりか、縁談が決まったのが気に入らない。
源氏物語や枕草子にあるような貴族の姫ならば、通う相手を選べたのだろうか。
それとも、庶民の娘ならば自由に相手を選べたのか‥‥‥。
思っても栓のないことだけれど。
そう、溜息を吐いた時。
「おわっ」
「‥‥‥え?」
がさり、草を揺らす音と人の声に思わず振り向いた。
迷い込んだのか、枝を掻き分けながら現れたのは、歳若い青年だった。
一言で表すならば、初陣に赴く若武者───。
凛々しさや精悍さよりも微笑ましさを与えるような歳若い青年は、乙和の顔を見るなりぴたりと動きを止めた。
まじまじと顔を見られるのもまたかと思う程度には慣れている。
好色な視線や欲に満ちた眼差しを投げかけられることだって、珍しくはないのだ。
‥‥けれど、今回は珍しい事にどうしてだか乙和までもが彼に見入ってしまう。
「あの‥‥」
「あっ!‥‥‥いや、その、申し訳ない!まさかこの様な未開の場所に人が居るとは思いも寄らず、驚かせてしまいました」
「‥‥いえ、平気ですわ」
あんまりにも長い間固まっているので心配ゆえ声をかければ、突然現れた事を詫びられ反応に困ってしまった。
今の自分も同じ表情なのだろうか、と目の前の彼を見て思う。
まさか人がいるなんて───言葉にするなら、そんな顔。
驚きを共有しているのだと思うと、何だかおかしさがこみ上げる。
彼もまた同じ気持ちだったのだろう。目が合うと互いに軽く吹き出した。
「こちらにいらっしゃると言う事は、貴方は秀衡兄様のご友人でしょうか?」
「秀衡『兄様』?‥‥‥ああそうか、成る程」
ふむふむと深く頷いた青年に、乙和は首を傾げる。
「私が何か?」
「いやなに、大したことではありませぬ。私は基治。秀衡殿とは時折杯を交わす仲、と申しましょうか。貴女はもしや、秀衡殿の‥‥?」
基治?
何処かで聞いた気がする。
いつ耳にしたのか定かではないけれど。
「従妹にあたりますわ。乙和と申します」
「乙和殿か」
柔らかく名を呼ばれる。
にこりと笑った青年を見ていると、どうしてか乙和の胸がおかしな音を立てた。
どきり、とひとつ高く刻む鼓動。
何か変わったものでも食したか?
そう首を傾げたが、別段思い当たらない。
「では此処が噂の、秀衡殿が溺愛する従妹姫の為に放置しているという庭だったのですね。知らぬとは言え踏み躙ってしまった様だ」
「まあ!兄様ってばそんな事をご友人にお話ししているの?困った方だわ。‥‥‥此処は誰の場所でもありません。ただ人が来るのが珍しく、少し驚いただけです」
「‥‥‥左様でしたか。それならば、良かった」
基治がほっとした笑みを浮かべる。
その笑顔が可愛くて。
「‥‥‥っ」
ほら、また。
乙和の鼓動が一瞬止まりそうになる。
若い───下手をすれば自分よりも年少かもしれない男を前に、何を緊張すると言うのか。
否、これは緊張ゆえなのだろうか。
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