花見から五日経った。
今日もまたあの日と同様、よく晴れている。
柳御所から少し離れた庭園を、私はひとり散歩していた。
心配する若桜さんに「元気だよ」とアピールする為と、気分転換も兼ねて。
この前見つけた小さな地蔵堂にお参りするつもりだった。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」
さく、さく、と緑の雑草を踏みながら、古文の授業の暗記テストで覚えた文を口に乗せてみた。
同時に意味も習ったけどあまりよく覚えてなかった。
日本史も古文も面倒で、あの時は興味もなかったから。
「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の‥‥‥必衰の‥‥‥あれ‥‥?もしかして忘れてるの私ってば」
悲しいかな、私の記憶力。
今まで、『万葉集』とか『古今和歌集』とか『源氏物語』とか。
解らない歌や文字があったら四郎や三郎くんに聞けたのに、これだけは聞けやしない。
だって、祇園精舎の鐘の声で始まる『平家物語』は、未来に生まれた物語。
今からずっとずっと、未来に。
御曹司も三郎くんも四郎も御館も‥‥‥皆、亡くなった後の時代に。
「やだなぁ、もう」
あの日から心臓が、不安を訴える。
この先どうなるのだろう。
安徳天皇がもう即位している。
平家と共に滅んだ人が生まれている。
やる気のなかった授業だから朧気に覚えているのは、安徳天皇が『幼くして亡くなった』という事くらい。
今になってそれを悔やむとは思ってなかった。
もっとちゃんと勉強していればと思うなんて。
『幼くして』───つまり、成人まで生きていなかった。
それは何歳?
何年後なんだろう。
その後の出来事をかいつまんで覚えているだけに、妙に焦る気持ちになる。
「‥‥‥あ」
不安、に。
それはこの時、眼に飛び込んだ光景もそう。
人の気配めいたものを感じて視線を後方に移した。
「四郎!」
目的地だった地蔵堂の入り口。
その手前の木に凭れている濡れ羽色。
背中を向けているけど間違いない、あれは四郎だ。
「‥‥楓?」
思わず駆け寄った私を見て、四郎は驚いたように眼を開けた。
どうやらこの木に凭れて眠っていたらしい。
だけど、一体何でこんな人気のない場所で眠っていたんだろう。
「何してんの、こんな場所で?」
「それは俺の台詞だよ。何しに来たの」
「わっ、私はここにお参りしに‥‥‥」
「ふぅん」
四郎は素っ気無い返事をしたかと思うと、すぐに身を起こし、ちらりと私に一瞥をくれる。
その冷たさに、怯みそうになったけど、でも。
「じゃ、俺は行くから」
「あ、──待って!」
「‥‥‥何?」
衝動的に掴んだ四郎の腕は熱い。
‥‥やっぱり。
「四郎、熱あるじゃない!」
「知らない」
「知らなくないでしょ!?」
空いた腕で四郎の額に触れてみるけれど、彼は抵抗しない。
多分、出来ないのかも。
それほどに凄く高い熱。
「こんなに熱出してるのに、ふらふら外に出てどうするのよ」
わずかに眉間に皺を寄せながら、四郎は溜め息を吐く。
「‥‥‥あんたに関係ない」
「馬鹿言わないでっ!」
関係ない
その一言に胸がずきりと痛む。
けれど、そんな事言ってる場合じゃない。
「ほら、帰って寝よ───」
「大丈夫だから」
私をあっさりと遮ると、掴んだ手を腕から引き剥がした。
「もう、俺のことは放っておいてよ」
「‥‥‥っ、」
心が、止まりそうになる。
黙り込んでしまった私を見て、もう一度溜め息を吐きながら四郎は、少し柔らかな口調で告げる。
「‥‥‥俺の心配なんてもう、しなくていいんだよ」
熱なんて忘れた様に、しっかりした声で。
見上げた空を彩る薄青色。
それが悲しい色に思えるほど、心の中は沈んでゆく。
それは誰か『他人』と喋る時のような、普段と何も変わらない口調だった。
あの綺麗な眼で私を見つめて淡々と落ちてゆく言葉。
普段なら呆れた溜息とかぼそっと皮肉だったりとか、可愛くない言葉を紡ぐのに。
「‥‥馬鹿、心配するの当たり前じゃない‥」
声が震える。
いっそ優しく聞こえる四郎が、やんわりとした拒絶だと分かったから。
「楓は‥‥‥ああ違う。これからは楓殿、と呼ばないとね」
熱の気配なんて、何処に行ったんだろう。
一瞬だけ私の方を向いて、少し寂しそうに笑う。
それからすぐに目を伏せ、あろう事か地面に片膝を付いた。
「し、四郎!?」
立っている私の視点からから見下ろす睫毛がすごく長かった。
背は私より高いから、見下ろす機会なんて今までなくて。
───今、どうしてだか四郎が私に対して跪いている。
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