それから、御曹司に手を取られて居心地が悪い私も席に着いた。
──視界の隅、弁慶さんと四郎が話をしているのを、認めながら。
着飾った女房さん達が杯を手渡してくる。
注がれたさらりとした液体から、仄かに香る酒独特の匂い。
はらり、はらりと、舞い落ちる薄紅の花片。
「安徳天皇が践祚したのは知っているか?」
お酌して貰った女房さん達を退がらせ、周りに余人の姿がないと確認して、御曹司は口を開いた。
春も麗らかなこの空の下。
他の耳には入らぬよう声を潜めて話す内容は、些か似合わないけれど。
「せんそ?‥‥えーと‥」
「践祚とは天子に即位されることです。『践』とは位に就くこと。『祚』は天子の位を意味します」
天皇の即位って言われても、平成で生きてた私には今いちピンと来ない。
年号が変わったり、後は国民の休日が変わったりその程度しか認識はないけれど。
平安時代までは確か、天皇が変わるって大変な事だったよね。
そのまま政治の実権が変わるんだから。
天皇を擁立する貴族や次位の皇族の一派が、互いに暗殺を企てたり呪詛をしたり。
そんなドロドロとした世界だった、と日本史で習った。
「‥‥じゃぁえっと、安徳天皇が即位したんだよね?何か問題があるの?」
待って、安徳天皇‥‥‥?
何をした人だっけ?
知ってる名前だけど。
「天皇ご自身に問題はない。あるとすれば、一昨年の師走に生誕された事だ」
師走って、十二月だ。
そして今は皐月。
つまり、五月だから‥‥。
「えっ、じゃぁ安徳天皇って二歳!?」
御曹司の告げる「問題」を反芻して、固まった。
二歳児で天皇?
政治なんて出来るわけがないじゃない。
「幼い天皇はこれまでに前例がない訳ではありません。御父君の高倉天皇も践祚なされたのは御歳八つでしたし、その前の六条天皇は御歳三つで御退位されていますから」
「‥‥‥それってやっぱり背後で実権を握ってる人の陰謀とか、一杯絡んでるんだよね?」
「そうだ。通例は太政大臣が摂政となり、幼い天皇が成人する迄支える事になっている。それが今の政治だ」
摂政は知ってる。
世の中の政を動かす事が出来るのは、神の子孫である天子──天皇のみ。
しかし、それでは貴族が実権を握ることが出来ない。
例え天皇の新派になり安泰を誇れど、最終的に政を行うのは天皇だけ。
何百年も続く貴族社会のなかで、争い、陰謀や権力戦争を繰り返し、そして栄華を掴んだのは藤原氏。
世の全てを掌中に治めたいと思うのは、当然の流れだったんだろうか。
ともあれ彼らが、それまでの通例だった『皇族による摂政制度』を変えた。
自分の娘を娶らせて。
娘から生まれた幼い天皇の祖父のポジションになる。
つまり外戚の立場。
そして幼い孫を即位させ、自分は摂政になり、ようやく政権を握ることが出来る。
「じゃぁ当たり前だけど、安徳天皇にも摂政がいるんだよね」
「ええ」
「で、その摂政が、ええと‥‥」
記憶を辿る。
今、源義経は鎌倉じゃなくて奥州に居る。
頼朝の名前はまだ聞かなくて、戦の話も出てなくて、それから平家が滅んでない。
だったら挙がる名前はたった一つ。
「‥‥平清盛、だよね?」
「そうだ、楓」
清盛と口にした瞬間に思い出す。
安徳帝。
その人の名を知っていた理由。
彼の最期がずっと先の未来まで、悲しい物語として伝わっているから。
「これから先が本題ですが‥‥」
慎重に声を落とした三郎くん。
続いて御曹司が、まるで恋人の耳元に息を吹きかけるかの様に囁きを落とした。
「今はまだ極秘裏だが、全国に潜伏する源氏に此度、以仁王から令旨を頂いた。平家を追悼せよ、と」
「平家を‥‥」
もろひとおう、の名に聞き覚えがないけれど。
安徳天皇は、海に沈んだ天皇。
平家の滅亡と共に、幼い生涯を終えた人。
その安徳天皇が、即位している───。
これから先、源氏は平家と戦う。
もちろん目の前の義経も。
平和な日々がずっと続くなんて思ってない。
けれど確実に忍び寄る『未来』の痕跡に、不安を覚えた。
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