「あのっ」
「どうした?」
「どうした?じゃなくて、近いんですけど‥‥」
近すぎる胸板に手を当てながら、やや身体を後ろに引く。
首を傾げる御曹司の、その手を少し持ち上げるだけで私に触れそうな距離。
間近に端正な顔があって落ち着かない。
「もう!近いって言ってるでしょ!」
「男女が話す時はこの距離が普通であろう?」
「そう思ってるのは御曹司だけだってば。‥‥普通はもっと距離開けて話すの」
「そういうものか?」
「そういうものです。口説いてるんじゃないんだから」
憮然として言うと、心底不思議そうに尋ねてきた。
「何を言っている。これから口説くつもりだが」
「はぁ?」
「男が美しい女人を口説かぬのは、失礼だろう?」
‥‥この人、どういう育ち方してるの。
「あのねぇ、私を何だと思ってるの?あっちこっちで女の人をぽんぽん口説いてどうするのよ、この節操なし」
「節操なしとは酷いな。これでも声を掛ける女人は選んでいると言うのに。‥‥‥若干傷つくぞ」
「選ぶなら余計にタチ悪いでしょ!‥‥‥って」
呆れつつ溜息を漏らしていると、ふとおかしなことに気付いた。
おかしな事ってつまり、御曹司のさっきの発言なんだけど。
『男が美しい女人を口説かぬのは、失礼だろう?』
って言っていたけれど、それって‥‥。
「‥‥‥つかぬ事をお聞きしますが」
「楓なら何でも聞くが良い」
「御曹司ってさ、今まで私にセクハラはしつこかったけど、口説いたりしてなかった‥‥よね?」
「せくはら?‥‥ああ、楓の世界で言う『愛故の接触行為』だったな」
「どんな解釈よ。それ、四郎ね?」
以前、セクハラの意味を四郎に聞かれた時に正しく教えたのに、御曹司にはどうやら捻じ曲げて伝えてくれたらしい。
‥‥四郎のバカ。
いや。
今はそんなのどうでもいい。
そう、そうなのだ。
御曹司ってセクハラまがいのスキンシップは多かった。
けれど、所謂『口説く』といった行為を実行された記憶がない。
セクハラだって肩を抱かれたり頭撫でられたり抱きつかれたり添い寝したり、そんな程度で。
胸やお尻なんかは触られたことがない。
そういえば、綺麗って言われたのもさっきが初めてだ。
‥‥だからといって、褒められたい訳じゃないんだけど。決して。
「‥‥そうか」
「な、何よ?」
「楓は私に、口説いて欲しかったのだな。すまなかった」
「はぁ!?ちっ、違うってばっ!」
「照れずとも良い。そんな楓も可愛いがな」
こ、こいつ‥‥!
嫌味なほど爽やかに笑う御曹司に、生まれて初めて殺意を抱いた。
「だから、そうじゃなくて!今まで私の事、女として扱ってなかったじゃない」
「‥‥‥まぁ、そうだが」
「なのに、いきなり今日になって‥‥態度変えるのか、ちょっと疑問に思ったんだけど」
ようやくさっきから言いたかった事を口に乗せる。
今まで、なんだかんだ触ってきたりしても、そこには『親愛』といった意味しか含まれていなかった。
どちらかと言えば肉親だったり、もしくはペットみたいな、そんな扱い。
だから私も嫌がる素振りを見せながらも、本気で嫌だとは思わなかった。
「私とそなたは夫婦になるのだ。誰にも遠慮はいるまい」
「御曹司はそれでいいの?御館に勝手に決められたのに」
そう聞くと、御曹司がふと笑った。
伸びてきた指先が、私の髪をゆっくり撫でる。
笑顔がいつもと違ってきらきらしていて、落ち着かない。
「‥‥‥楓は嫌か?」
「私?」
「私の妻では、嫌か?」
「え‥‥‥」
真摯な瞳に面食らった。
嫌なのか、そう聞かれたら何も言えない。
「‥‥もう、先に聞いたの私じゃないの」
「それもそうだな」
御曹司は声を上げて笑いながら、ふと瞳の青を濃くした。
訪れるのは、沈黙。
言いたくないんだろうか?
思えばこの人と御館との関係って良く分からないし。
四郎や三郎くんに聞いたのは、御曹司が幼い頃、平泉でお世話になっていたとしか。
聞かれたくない事情でもあるのかも知れない。
聞いてはいけなかったか‥‥と後悔しかけた時。
「私にとって御館は父上と同様、慕わしいお方だ」
ふわりと笑う彼は、とても綺麗だった。
「私は父上の顔は覚えておらぬ。私が赤子の頃に平家と戦い六条河原で討死された」
「‥‥そうなんだ。言いたくないこと聞いて、ごめんね」
「いや、気にするな。‥‥私の身柄は、父が敗死した後に鞍馬寺に預けられてな。僧として生きることで命拾いしたらしい」
「うん」
「‥‥だが、経を読むだけの日々など合う筈もなかった。河内源氏の子として、父上の仇を取るべきだと、毎日そればかり考えていた」
「毎日?」
「ああ。よく寺を抜け出していた。その頃だな、弁慶に出会ったのは」
‥‥‥凄い。
今聞いているのって、かの有名な『五条大橋』の話だよね。
千本の太刀を奪おうと悲願を立てた弁慶は道行く人を襲い、あと一本ということころまで刀を狩った時に、五条大橋で出会ったのは笛を吹いていた源義経。
義経が腰に佩びた見事な太刀に目を止め、太刀をかけて挑みかかるが、欄干を飛び交う身軽な義経についに敵わず返り討ちに遭った、っていう話。
弁慶は降参して、それ以来義経の家来となったっていう話は本当に有名で。
「鞍馬を捨てたのはその後だ。平泉に縁あった者の手引きで、弁慶と二人奥州平泉へ下った。そこで御館に対面してからというもの、息子同然に扱って貰っている」
苦笑にも似た視線を弁慶さんの背中に向ける御曹司は、やっぱりいつもの様な軽薄さを感じなかった。
「だから御曹司は、御館をお父さんみたいに慕ってるんだね」
「そうだ。その御館が、私と縁戚になりたいと申してくれたのだ。‥‥‥断る理由などない」
ああ、そうか。
それが、私の質問に対する御曹司の『答え』なんだ。
私を好きだったとか、そんな嘘だって幾らでも言えた筈なのに。
もっとも、そんな理由なら絶対に信じなかったけれど。
うん。
今の言葉は十分に信を置ける。
隠すことなく正直に話してくれたから。
「すまぬな。真実を話してみたが、楓には酷な言葉だったかもしれぬ」
「‥‥ううん。正直に話してくれて嬉しい。ありがとう」
すっと楽になった。
御曹司も、自分の為に私と結婚するんじゃないんだ。
もしかしたら、他に好きな人が居たかもしれないのに。
私が御曹司の惚れた相手じゃなくて、申し訳ない気持ちの一方で、どこかほっとした。
私だけじゃない。
この人も、好きじゃない人と結婚するんだと。
‥‥‥きっとこれは浅ましい考えだけど、ほっとした。
「楓」
「ん、何?」
呼ばれて顔を上げると、柔らかい微笑を浮かべていた。
「それでも私は、御館が繋いだ相手がそなたで嬉しい」
「‥‥え?」
「これからはそなたを知ろうと思う。女人として、伴侶として。‥‥‥そなたも、私を知ってくれぬか?」
「御曹司を‥‥?」
「もうすぐ夫婦になるが、これから先は長い。焦らぬから、いつか男として見てくれ」
「男として‥‥‥」
そんな日が来るんだろうか。
今、この瞬間にも頭から離れない面影があるのに。
いっそ憎たらしいほど綺麗な面影を、忘れられる日が。
そうして御曹司を想う日が、果たして来るのか分からない。
分からないけど‥‥。
「‥‥頑張ってみる‥」
「ああ。今はそれでいい。これから宜しく頼む、楓」
かつての四郎と同じように、手を差し出してくる御曹司。
その手に、私は自分の手を重ねた。
前 *戻る* 次