御館と会ってから、今日で五日。
『桜の蕾を見に行かぬか?』
御曹司からの誘いを、見知った女房さんが言伝たのは今朝のこと。
即座に断りの返事をしようとしたら手遅れで、周りの女房さんがまるでお祭りのようにはしゃぎ出したのでタイミングを逃してしまった。
張り切ってあれこれ着替えさせられた結果が、今の姿。
‥‥衣装が重い。
「九郎様」
「来たか。楓は?」
「こちらに」
考え事に没頭している間に、御曹司の待つ場所に到着していたらしい。
聞きなれた軽やかな声の持ち主と眼が合った。
「楓!よく来たな。寒くなかったか?」
「‥あ、少し」
「そうか。早くこちらに。甘酒を用意させている」
「う、うん」
「ご苦労だったな‥‥下がれ、弁慶」
「御意」
軽い御曹司の声音より、告げられた名前に眼を見張る。
‥‥弁慶?
弁慶って。まさか。
「まさか、武蔵坊弁慶っ!?」
「‥‥」
「何だ楓、知っていたのか?」
「えぇっと、‥‥知っていたって言うか‥‥」
武蔵坊弁慶なら知っている。
高校生になって知らない人はいない。
でもまさか。
まさか、この人がそうだったなんて。
武蔵坊弁慶。
源義経に仕えていたと言われる人。
京都にある有名な【五条の大橋】という場所で源義経と出会って以来、その生涯を義経に捧げた人。
確か、怪力無双の荒法師だとか。
義経と一緒で各地に伝説が残っている。
そんな弁慶の銅像が、私の時代じゃあちこちに建っていた。
‥‥‥た、確かに。
彼の服装がお坊さんみたいなのも、『荒法師』、つまり法師だったんだから頷ける。
目の前に立つ彼は、教科書に載ってたどの銅像とも全く違う。
「楓?」
「あ、えっと‥‥‥そうそう!し、四郎が教えてくれて、だからっ」
「忠信がな。成る程」
御曹司の眉間が訝しげに細められて、ドキっとする。
咄嗟に四郎の名前出して嘘吐いてしまったけど。
御曹司の部下なんだから、顔ぐらい合わせているよね。
そういや以前も四郎が名前を出してたし。
『弁慶殿が帰っていないのが幸い』‥‥って。うん、言ってた。大丈夫。
「もう良いぞ。下がっておれ」
その言葉に、武蔵坊弁慶は短く一礼をして、踵を返した。
「‥‥あやつも、もう少し愛想があっても良いものを‥」
ぽつり、隣で呆れた声が降る。
‥‥そっか、無口な人なんだ。
だから必要最低限しか喋らなかったのか。
「突然外に呼び立てて、すまぬな」
「う、ううん‥‥」
どう返事していいか戸惑った。
御曹司と会ったのは私が屋敷を飛び出して以来、本当に久し振りで、だから。
この人の側室に、私が?
一生傍にいるのか。
私の時代に帰る、その時までなのか。
それすらもあやふやな、私の未来。
そんな未来に向けての一日一日を、この人と?
‥‥‥ダメだ。どうもピンと来ない。
「そなたとは、誰の耳も及ばぬ場所で話をせねばと思うていた」
「だから此処に?」
「うむ。弁慶に見張らせておる」
今いる場所って先日私が迷子になった衣川館の裏手にある森。
前と違うのは、雪が解けはじめた地面から微かに芽吹く小さな緑。
少し離れた、でも会話が聞こえないギリギリの場所に武蔵坊弁慶が控えている。
私達以外に人の気配は感じない。
時々、鳥が鳴く。
まだ冷たい風がふわりと髪を一筋、攫う。
静かな場所に、私達だけ。
「それで、御曹司の話ってなに?」
「そう焦るな。楓の姿をもう少し愛でさせてくれ」
「め、愛で、って‥‥変態」
「変態とは心外だな。楓がいけない」
「は?何で私のせいなのよ」
いつの間にか肩を抱いてきた御曹司の手を払いながら聞く。
すると、御曹司が屈み、視線の高さを合わせてきた。
御曹司のドアップに後ずさってしまう。
「ちょ、顔が近いって!」
「よく似合う」
「‥え?」
「その衣装、よく似合っている」
念を押すように似合っていると繰り返す。
聞いた事の無い甘やかな声が鼓膜を震わせる。
ゆっくりと伸びた手が、私の口元に届く。
吐き出した息が、御曹司の指に掛かりそう。
振り解かなきゃ。
頭ではそう思うのに、視線に縫い止められて足が竦む。
「‥‥綺麗だ。何処の姫にも劣らぬな」
「‥‥っ、」
御曹司の一言で、世界が弾けた。
「あ‥‥りがと」
褒められて嬉しくない筈はない。
私だって女の子だ。
綺麗な着物を似合うと言われて嬉しくない筈がない。
嬉しい‥‥のに。
同時に重くなっていく。
悲しくなる、この気持ちの理由に気付いた。
見せるのが御曹司だったから、ではなく。
例えばこれが御館でも、三郎くんでも忠衡さんでも一緒だっただろう。
言って欲しいのは、たった一人。
それは‥‥‥‥夫になるべき人じゃ、ない。
私ってば馬鹿だ。
今更気付いても、苦しいだけなのに。
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