「帰るぞ。皆が探している」
「皆?‥‥え、皆って?」
「そのままだ。私が見た時は、衣川館の者が総出で捜索していたが」
「捜索!?」
「今朝から姿を見せぬとそなたの女房が騒いでな。継信や国衡が卒倒していたぞ」
捜索に、卒倒って‥‥。
まさかそんなに大事になっているとは思っていなかった。
ふと、周りの景色に思い当たれば、真っ暗と言わないまでも既に傾いている太陽。
気づかなかったけど、私そんなに長い間ぼーっと考え事をしてたのね。
その割りに纏まっていないけど。
‥‥‥あれ?出かけること、若桜さんに断ったよね?
そうか。聞こえてなかったのかもしれない。走りながら叫んだだけだし。
「‥と、それよりもごめんなさい」
細かいことはどうでもいい。
今しなければいけない事は自分の軽率な行動を反省して、謝罪する、これだけ。
「どうした?」
「‥心配かけて、迷惑かけて‥‥ごめんなさい」
「気にするな」
落ち込む私の手が暖かさに包まれる。
「おんぞうし‥?」
「非なら、そなたの行き先を知りつつ黙っていた私にもある。共に怒られればいい。そうであろう?」
その横顔は余裕が浮かんでいて、楽しげでさえあった。
見上げる私は、気遣ってくれてる事が嬉しいような、申し訳ないような。
そんな気分になった。
「そう言えば御曹司はさっき、四郎って呼んでたけど」
「それが如何した?」
「ん、普段は諱(いみな)で呼ぶよね?」
「‥?あぁ、あれか」
此処、奥州平泉の主である藤原氏に先祖代々仕えていると佐藤家の兄弟と。
御曹司───源九郎義経はその平泉が預かる清和源氏の御曹司なのだから、当然身分は上。
だから御曹司が二人を呼ぶときは『継信』と『忠信』だった。
それを指摘すると、くすりと小さく笑う。
「元服前に平泉で幾度か顔を合わせていてな。普段は気を付けているが、時折昔の呼び名に戻る」
「そっか。そういやこの時代って、元服するまで諱はないんだっけ」
この時代の男子は、子供の頃は幼名を名乗る。
元服、つまり成人の儀を迎える時に名付けられ、以降はその名を冠る。
大方は先祖から受け継がれる名の一字とか、烏帽子親‥‥つまり後見人のような存在の名から一字を貰ったりするらしい。
うん。そこは授業で習った。
たまには真面目に聞いていた事を今になって誇らしく思いながら頷く私に、思いついたように御曹司が問いかけた。
「諱と申せば、楓。その名は真の名でなかろう?」
「そうだよ。四郎が付けてくれた名前だって三郎くんが言ってた]
「‥‥忠信が付けたのか?」
御曹司の足がぴたりと止まる。
「‥?うん。何で『楓』なのか聞いても教えてくれないけどね。ちゃんと意味は、あるらしいけどなぁ‥‥」
「‥‥‥ほう、奴がな」
つられて止まった私を見て僅かに目を見開いたかと思えば、それからくっと笑い出した。
一体何だろう。
「成る程、面白い」
「何がよ」
「うむ、楓。良い名ではないか」
「‥‥そりゃ私も悪くないとは思うけど‥なんか引っかかる言い方よね御曹司」
御曹司にはたったこれだけで、何か解ってしまったらしい。
私はいつまで考えても、さっぱりなのに。
楓。
綺麗な響きで気に入っている。
けれど四郎も、三郎くんも、それに御曹司まで、肝心なことを隠していて面白くない。
むっすりと黙り込んだ私の前で、御曹司の前髪が揺れた。
夜色から覗く目が、心なしか優しい気がする。
「解らぬか。‥‥‥‥そうだな、楓の花や実を見たことがあるか?」
「楓の花?ううん、葉っぱなら見てるけど」
そうだ。
楓と言えば紅葉を連想する程度だったから。
花、そんなものあったのか。
いや、植物である以上、花や実がなくてはおかしいんだけど。
「そうであろうな。楓の花は目立たなく小さいゆえ、知らぬのも無理はない」
花のように、ぱっとしない外見の私には、やはり目立たない『楓』の名が似合う。
名前の由来ってそんな所だろうか。
‥‥四郎め。
「花もそうだが楓の実も変わっていてな、二つの種が密着しひとつの姿を形作る」
「くっついてるの?」
「ああ。それぞれから翼が伸びている。脱落するときはその翼で、風に乗って螺旋を描きながら落ちるのだ」
「くるくると?」
「そうだ」
いつだったか、テレビで見たことがあった気がする。
羽子板の羽のような実が、くるくる回りながら地上に落ちていくシーンを。
とても不思議で一度見たいと思った事を覚えている。
何の実か忘れているけど、そう言えばあれは秋の紅葉林の中心だったんじゃなかったっけ。
「それ故に、忠信はそなたに『楓』と付けたのあろうな」
「は?‥‥‥意味わかんないんだけど?」
花と実の構造を教えられて、それが私に名付けた理由だと言われても、困る。
それともなんだ。
『実と一緒で、こいつ珍しいし面白いから「楓」でいいか』
とか、そんな理由なんだろうか。
それはそれで微妙な気がするけど。
‥‥‥うん。あの四郎なら言いかねない。
「後は忠信に聞くが良い。素直に答えるかは知らぬがな」
「嫌な態度。‥‥まぁいいか。この名前気に入ってるし。機会があったら聞いてみるね」
「それがいい」
もう一度柔らかく笑うと、大きな手がぽすりと頭を撫でる。
暖かい手。
そこにいたのは、変態でもセクハラ御曹司でも女好きでもない。
私の知らない表情を浮かべた一人の男の人。
「‥‥‥そなたの名は、『楓』」
どこまでも暖かく、それでいて僅かに哀しみの混ざった眼で見つめられる。
そこに『何か』が込められている気がして。
私は視線を合わせられなくなり、俯かざるを得なかった。
「楓は、此方の人間だ。基治殿と乙和殿の娘であり、御館の養子。それで良い」
「‥‥」
「私がそなたの諱を知る事はない。楓が何者であろうと構わぬ。此方が、楓の世界だ」
「‥‥」
───ああ、この人は知っている。
きっと、全部。
御館から聞いたのかもしれないし、或いは四郎から。
でも、そんな事はどうでもいい。
「笑っていろ。そなたが笑うと気が解れる」
「ほぐれる?‥私が?」
だって、限りなく暖かな言葉が降って来るから。
「‥‥前に国衡が、そう言っていてな。私も思う」
「‥慰めてくれるんだ」
「いや?慰めの言葉など必要あるまい。楓の笑顔を好いていると言ったまで」
きっと深い意味はない。
それ位の台詞、彼なら何処でも言ってるんだろう。
そうと判っていながら、私はそんな御曹司が放って置けなくて。
口説き文句かもしれないけれど、彼なら仕方ないかって思い騙されてやるかと思わせられる。
「‥ありがとう」
数多の女がこの人に惹かれる理由が今、ようやく理解できたから。
‥‥そして私も、女だと。
熱くなる頬が、その証拠。
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