「泣いているのかと思ったぞ」
慌てて空に向けた視線を落とせば、紺色。
いつの間に夜になったのか、と思ったその色は髪の色だった。
皆が御曹司と呼ぶ、源九郎義経、その人の。
「‥‥え?」
「何だ、迷子か」
「‥‥そういう御曹司こそ」
私の返事を聞くと、御曹司は声を上げて笑った。
「冗談のつもりだったがそう返すとはな。まさか本当に、道に迷っていたとは」
そう言い当てられてムッとした。
「ど、どうでもいいじゃない!」
「そう怒るでない。迎えに来てやったのだから」
「‥‥迎え?それって‥‥」
「雪に慣れぬ者が一人で出歩くのは危険だ」
私が一人でここに来た事、最初から知ってた?
そう言いかけた私の言葉は呆気なく落ちて、それ以上は口が利けなくなる。
だって、彼は笑んでいた。
柔らかく、優しく笑っていた。
「衣川館から森へ消えるそなたの後ろ姿を見れば、聞かずとも解る。一人になりたいのだとな」
「それは‥」
「それ故に、頃を計って迎えに来た。あまり遅くなれば、土地に慣れぬそなたは迷うであろう」
いつもみたいに体を触ってくるでもなく、ちょっかいをかけてくるでもなく。
ふわりと笑う。
冷えた体が包まれるような、そんな気がした。
「どうして‥‥分かったの?一人になりたいって」
今朝は早起きしたから、御曹司が部屋に来る前には外にいた。
だから彼と会ったのって今日は初めてだ。
「先に言ったであろう?そなたの後ろ姿を見たと。それに」
一旦言葉を区切った。
目の前で確かに笑っているのに、笑っていないような、そんな顔。
今まで知ってた「義経」の顔って、こんなに寂しそうだったかな。
いつも飄々としてて、何を考えてるか分からないけど、常にへらへらと笑ってた。
それが私の中での御曹司だった。
「‥‥そなたは、楓は、良く似ておるのでな」
「似てる?‥‥誰に?」
「‥‥‥」
眼を細めた御曹司の手が、私の頭に触れる。
気が付かない間に積もった雪を払ってくれる手つきは、壊れ物に触れるようにそっと。
それでいて、手から熱が伝ってくる。
「私の、母上に」
「母上って、御曹司の?」
「そうだ」
義経のお母さんと言えば‥‥常盤御前だろうか?
私の時代にも伝わる、義経の母君の伝説。
源義朝の妾、つまり側室となり、今若と乙若、そして牛若を産む。
牛若というのが、今の御曹司‥‥源九郎義経の幼名。
平治の乱で義朝が平清盛と戦って殺され、未亡人となった常盤御前が、母親と幼い子供達の助命を請うために、清盛の元に出頭して。
常盤御前の美しさにすっかり心を奪われた清盛は子供たちを出家させる事で命を助けた。
その後、彼女は清盛に請われて妾となり、確か子供も産んだんだと思う。
そんな絶世の美女と謳われた常盤御前と、私が‥‥‥似ているのは、幾らなんでも言い過ぎだ。
「乳呑児だった私には母上の記憶が朧気だ。だが、そなたを見ていると懐かしさを感じる。‥‥何故かは判らぬが」
‥‥‥ああ。
今まで彼が私にとったセクハラな行動の、意味が分かった気がした。
運命に引き裂かれた時、小さすぎた牛若。
微かに覚えてるお母さんの温もりを、どう思いながら生きてきたのかは理解できないけれど。
それに、年下の私に何を言い出すんだか。
母性を感じるって言われてるも当然で。
それって失礼だと思うけど。
「そなたの傍は心地が良い。落ち着くのでな、それ故に近付き過ぎた。すまない」
「‥‥いいよ、もう」
しょうがないな、この人。
御曹司に謝られると、何だか、仕方ないって思わせてしまう。
これが天性の人懐っこさ、と言うのか。
怒ってても怒りきれなくさせてしまう所。
「まぁ、伝え聞く母上の面差しは、そなたとは懸け離れている様だが」
「‥‥あっそう」
出会ってから初めてちゃんと「会話」をしている様な、そんな気さえした。
ちゃんと向き合うと、この人は居心地がいい気がしないでもない。
「はははっ、そう拗ねるでない。楓もなかなかに愛らしいと思うぞ?」
「別に拗ねてないって」
「少なくとも、私も三郎もそう思うておる‥‥四郎もな」
「‥‥え?」
心の隅に重く貼り付いた名前を紡がれて、驚き顔を上げた。
「四郎と、喧嘩したのだろう?」
「‥‥それは‥」
頭から肩に熱が移動して、両肩がふわりと暖かく緩む。
それから、眼差しがしっかりと絡んだ。
「四郎を頼む。腹の見えぬ奴だが、根は純粋でな。‥‥‥そなたにしか頼めない」
「‥‥‥、‥‥!それっ‥!?」
一瞬、呼吸が止まるかと、思った。
───どこかで聞いた、その言葉。
とても強く、それでいて消えそうな響きでもって、何処かで。
忘れていけないような気がするのに、忘れたのか今は思い出せない。
いつ?どこで?
本人に直接聞こう、と上げた顔は、けれど上げた瞬間止まる。
真っ直ぐに私を見る眼差しが、優しくて儚く。
‥‥この眼を私は知っている。
そんな気がした。
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