暇だから、一度行きたかった市へ行こう。
何となく決意した私は、地図を描いて貰う為に手の空いた女房さんを探していた。
庭園というには広大すぎるけど、橋の掛かった池がある此処は、人の手と自然が作り上げた贅沢な空間。
この橋、誰も渡ってないけどお飾りなのか。
渡ってみたいかも。
‥‥幸い、咎めそうな人は誰もいないと思いながら一歩踏み出した。
「楓殿!」
「え?‥‥げっ。おんぞう、し」
振り向けば、今朝思い切り殴った相手がにこにこと手を振っている。
それも一人じゃなく、両手に花。
いや、両手にというか両手と前に二人、計四人の女がこっちを見てる。
里の子達だろうか。
この前見た時は可愛い子達だった気がするけど、今日は綺麗なお姉さんだわ。
「これから野駆けに行くが、楓殿もどうだろうか」
「え〜?九郎様、あの子も〜?」
「そう申すな。皆で仲良くすれば良いだろう?」
ああ、女の人達が見てる。
見てるというか、睨んで‥‥‥‥こ、怖い。
しかも御曹司の顔、青痣が目立ってるじゃない。
どうしよう、今思えば身分が上の義経を殴ってる私って、罪人‥‥?
「いえいえ結構ですわ、どうぞ皆様で楽しんでくださいませ御曹司!おほほほ」
「‥‥‥?悪い物でも食したのか?」
橋を渡る事などすっかり忘れ、色々と厄介事を引き起こさないようその場から逃げた。
「はぁ‥‥疲れた」
少し走った所で足を止めた。当然だけど追いかけてこない。
やれやれと空を仰げば、秋独特の冷たい風が頬を撫でた。
源九郎義経。
その名を、私は知っていた。
日本に住んでいる高校生なら、誰でも知っている。あまりにも有名なのだから。
流石に佐藤兄弟を知らなかった私でも、義経の名は、その兄の頼朝と共に知っている。
私が習った義経とは、頼朝の異母弟で。
戦術の天才だが政治感覚は全くなく、頼朝の怒りを買った悲劇の人だ。
でも‥‥‥実際に目にした彼とは些か違う気がする。
四郎が言うには、御曹司は明るく気さくで誰にでも優しいのだとか。
単に、女に手が早いだけだろうって私は思うんだけど。
平泉にいる女の子は皆口説かれてるんじゃないか。
現に館や外で見かける度、いつも女の子を何人も連れている。
そんな男だから、毎朝私が被害を被るのも無理はない。
とは言え、どうやら人の寝起きを覗きに来るだけで、「眠る女には手は出さぬ。天地神明に誓おう」と本人は胸を張っている。意味不明だ。
三郎くんも四郎もその点は信用しているらしい。
だから、今朝だって私の怒りに彼らは呆れるばかりで便乗しない。私の貞操については危険を感じていないらしい。少し腹立つ。
「止めてくれてもいいのに」
「何を止めるの?」
「わぁっ!?‥‥って!」
───四郎だ。
聞き慣れた声は、振り返る迄もない。
同時にあちこちから視線も感じる。それも複数の。
ああ、この視線も確かめなくっても分かる。
さっき睨まれたのと同じ種類の物だから。
「何か用、四郎?」
「ああ、ちょっといい?」
「今?これから市に行きたいんだけど」
「暇なのか。丁度良かった」
「あのね、人の話を聞いてる?」
勝手に解釈しないでよ。
そう続けようとしたけど、肩を竦める四郎の言葉に吹っ飛んだ。
「御館がお呼びだ」
「‥みみ御館!?わた、私っ?」
「‥‥‥?そう言った」
ああ、もしや今朝の一件が御館の耳に入って、それで御曹司に傷を付けやがったなコラ!とかそんなお怒りが来るのかも‥‥っ!?
ほら御曹司ってアレだけど一応身分高い人だし!
アレな変態だけど!
平泉の長が自ら「御曹司」って言って敬っているんだもの。
一介の小娘がその御曹司の肌に痣を残して‥‥!
「し、四郎どうしよう!?」
「はぁ?」
パニックに陥り半泣きになった私に、四郎は肩を竦める。
「‥‥何考えてるか想像付くし、馬鹿だと思うけどさ」
「え?」
予想外の出来事に、何が起こったのか分からなかった。
何処かできゃーっと女の沸く声が聞こえるのは、気の所為でもない筈。
「仕方ない。どうせ柳御所も分からないんだろ?‥‥‥一緒に行ってやるから心配するな、花音」
暖かく繋がれた手。
それと小さく紡がれたのは、呼ばれなくなって久しい諱。
私の本当の名前、「花音」って呼ぶのは今ここでは四郎だけで。
「‥‥‥ありがとう」
それが私を落ち着かせてくれた。
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