第2話

敵国の宰相、アーデン・イズニアに正体が知れてしまったその日の夜、ラークスは自宅で夕食のパスタを茹でながら物思いに耽っていた。

もしかしたら自分は、とんでもない取引をしてしまったのではないだろうか。
なぜあの時、五日間が終わったら機密書類を見せ、しかもルシスまで送り返すと言うアーデンの言葉を信じたのだろう。
その約束を反故にしないと言う保証はどこにもないと言うのに。

「……もしかしたら、五日が過ぎたとたんに捕まって処刑されたりして…」

冗談じゃない。そんな事になるくらいならグラディオラスへの操を立てて死んだ方がまだましだ。

「どうしよう…絶対あの人変なプレイ好きだよ…」

男はグラディオラスしか知らないラークスにとって、それ以外の異性は未知の存在だった。アーデンの年齢は知らないが、恐らく10歳以上年上で、なによりもあのニフルハイム政権のトップに立つ男なのだ。まともなはずがない。

腹の底から深くため息をついた後、はっとして鍋を覗き込んだ。
慌ててトングでパスタを引き上げると、茹ですぎたそれがぼろぼろと鍋の中へ落ちる。がっくりと肩を落とし、仕方なしにショートパスタとなってしまったものをトマトベースのソースに和えた。
スプーンですくって口に入れると、アルデンテをとうの昔に過ぎたパスタがぐにゃりと潰れる。

「……歯茎で食べられるよー……」

ただでさえ食欲が失せているのに泣きたい気持ちになった。
明日からどんなテンションで仕事をして行けばいいのだろうか。その五回が一体いつやってくるのかさえ分からないので、連日気を張っている事になりそうだ。
失敗したトマトパスタを水で喉に流し込み、ラークスはもう一度盛大に息を吐いた。






翌日、ラークスは鬱々とした気持ちのままのろのろ歩き、いつもよりも少しだけ遅めに出勤した。
執務室のドアを開けると、ふわりとコーヒーの香りが漂っている。不思議に思い給湯室の方へ目を向けると、アーデンの背中が見えた。
ラークスに気づき振り返ると、おはようと機嫌良さそうに言う。

「…早いですね宰相。珍しい…」
「うん、たまにはラークスにコーヒーでも淹れてやろうと思ってさ」

そう言って、両手にコーヒーを持って近づき右手に持っていた方をラークスに差し出した。
ありがとうございますと小さく言ってそれを受け取り一度デスクに置き、ジャケットを脱いでラックにかけた。

今日に限って無言の時間がどうにも苦痛に感じる。
椅子に腰を下ろしコーヒーを一口飲み込み、目線を僅かに上げてアーデンの方を見るとなぜか嬉しそうな顔でラークスを見ていた。

すぐに目を逸らし、不機嫌そうに鼻から短く息を吐く。

「…な…なんですか…?」
「緊張してるの?いつも通りにしてくれていいんだよ」
「いつも通りなんてもう無理です…二年前から正体がばれてたなんて…私無能すぎる…」
「そんなことないって。君の素性を知ってはいたけど、なかなか尻尾を掴ませてはくれなかっただろう?」

十分優秀だとアーデンは言う。

「オレがニフルハイムの宰相になってから30年以上経つけど、その間何人かスパイが潜り込んで来たよ。敵の多い国だからさ…」
「……その人たちは…?」
「すぐにボロが出たからね、死んでもらったよ。スパイは重罪だから、当然でしょ」
「………それが普通よ…どうして私は殺さずに取引なんて…」

諜報部員として教育されているときから、一通りの訓練に加えて万が一素性が相手に知られてしまった時の対応も叩き込まれてきた。
潔く命を絶つつもりだったのに、なぜ今こうして昨日と変わらずこの部屋で仕事をしているのだろう。

アーデンはコーヒーを片手にラークスに近づき、俯いた頭のてっぺんを見下ろした。

「昨日も言ったけど、スパイであることを除いても君は出来た女だよ。気が利くし賢いし、オレができるだけストレスを感じない様に仕事をさせてくれてただろう?まさに秘書の鏡だね」
「………それはどうも…」

この男に褒められても素直に喜べない。
下を向いたままでいると、アーデンがラークスの前でしゃがみ左手を顎に添えて前を向かせた。コーヒーをデスクに置き、ラークスのメガネをそっと外して猫のような瞳を見つめた。

「それにさ、いくら地味を装ったって土台の良さは隠しきれないもんだよ。こんな可愛い子、オレには殺せないなあ…」
「…一国の宰相がそんなことでいいんですか…?」
「だからさ、君だけ特別。そのための取引なわけ」
「…信じていいの?昨日考えたんだけど、あなたが約束を破って五日間が終わったら私を捕まえるんじゃないの?」
「嘘はつかないって言っただろ?必ず解放するよ。でも……」
「……でも…?」

アーデンは笑みを浮かべてラークスの長いプリーツスカートの裾からゆっくりと手を入れた。
ふくらはぎを撫でてそのまま右の太ももまで掌を滑らせていく。

「やっぱり行かないでって、オレが泣きつくかもよ…?そうしたらラークス、君はどうするかな」
「……かまわず帰るわ」
「ははは!冷たいねぇ。まぁそういう所も魅力的だけど…オレが君を裏切ることはないから安心してよ。取りあえずそれまではこれ、預かっておくからさ」

そう言ってスカートから引き出したアーデンの手には、ラークスの太ももに取り付けられていたレッグホルスターがぶら下がっている。

「手癖の悪い男ね…」
「あー、昔からよく言われるよ。でもほら、こんな危険なもの持ってて君が怪我したら一大事だろう?」
「もう自殺しようなんて思ってないです…」
「いい心がけだ。母国へ帰って、恋人に会いたいんだもんね?」

ラークスに恋人がいると分かっていて尚突き付けてきた条件に、この男の底意地の悪さがうかがえる。

「ところで……その五回はいつなんですか?素性がばれたのに、いつまでもこうして帝国で秘書のふりをして働いていると言うのも気分が悪いものだわ」
「ああなんだ、そんなに早くオレとしたいの?」
「…私がいつそんな事言った!?」

眉間に深い皺を寄せ、牙をむき出しにする様にして怒るラークスは威嚇する猫そのものだとアーデンは思った。
どんなに恐ろしい顔を作った所で可愛さには変わりがない。

「ごめんごめん、冗談だって。そんなに怒らないで…そうだなあ、こうしよう。一回カウントするごとに、これを一つずつ君に返すよ」

そう言って、ラークスから奪った銃弾を五つポケットから取り出して見せた。

「五発あるからさ、最後のひとつを君に返した時、一緒にこの銃も渡すから。それで晴れて取引は完了ってことでどう?」
「なるほどね、分かりました」

ラークスの持っていた小型の銃は、敵に奪われた時のことを考慮して最初の一発目には弾は入っていなかった。
そこまでしっかりと備えていたつもりだったのに、アーデンは一体どのようにしてラークスが常に携帯していた銃から弾だけを抜き取ったのだろうか。
そんなマジックのような事をしてみせたり気配もなく突然現れたり、本当に謎だらけの男だと思った。

「だからさ、それまでは一応オレの秘書をしっかり頑張ってね。頼りにしてるんだから。というわけで…今日の予定なんだったっけ?」
「今日の予定は、午後からアコルドの首相と会談があります」
「えー…今日だっけ?オレあのおばさん苦手なんだよなあ…」
「そうですか?立派な方だと思いますけど」
「まあ賢い女性ではあるんだろうけど…なんていうか可愛げがないよね」

この男は一国の首相にまで可愛さを求めるのだろうか。
ラークスは呆れたようにため息をつき、11時には出発しますと伝えた。





久しぶりに訪れたオルティシエは、相変わらず美しい水の都だった。天使の彫像が至る所に置かれ、光り輝く街はさらに幻想的な雰囲気になる。
優雅に水路を行くゴンドラを眺めていると、アーデンは何か食べたいと言い出した。

「まだ時間あるよね?」
「ええ、大丈夫ですけど…ホテルで休まなくていいんですか?」
「なにそれ、ずいぶん積極的だねラークス!もしかしてけっこうその気だったりする?」
「………アコルド政府が用意してくださっているホテルです!!」
「まーたすぐ怒る。ラークスって冗談通じないよね?面白いからいいけど」
「今のあなたからそういう冗談を言われてもちっともシャレにならないわ…!」

ラークスがそう言うと、アーデンは確かにそうだと笑った。

「んじゃあ取りあえずホテル行こうか。そこで何か頼めばいいや。リウエイホテルのロイヤルスウィートでしょ?」
「そうです」
「オッケー、それじゃあ出発」

ゴンドラに揺られ、リウエイホテル駅へと向かう。
この街では移動手段そのものが観光の目玉の一つとなっていて、水路に面した通りはどこも美しく装飾され、またゴンドラからでも多くの店を眺める事が出来る様になっていた。
もしもルシス王国以外で住むことになるのなら、ラークスは間違いなくオルティシエを選びたいと思うほどこの街が好きだった。

ホテルに到着し、チェックインの手続きを済ませアーデンを連れて部屋へと向かう。

「宰相のお部屋はこちらです」
「ラークスは?」
「私はロイヤルスウィートではありませんので下の階です」
「…なんだよ、あの首相もけっこうケチだねえ」
「秘書ですから当然だと思いますよ。では、一時間したらお迎えに参ります。ごゆっくりどうぞ」

そう告げてその場を去ろうとすると、アーデンがラークスの腕を掴んだ。

「行っちゃうの?入りなよ」
「けっこうです…!」
「ロイヤルスウィートだよ。使ったことないだろう?ああ、別に今からどうこうしようって気はないから安心してよ」
「で…でも…」
「いいからほら、オレ一人じゃ退屈だからさ」

足を踏ん張るラークスを引っ張り込み、素早く後ろ手で鍵をかける。
小さく聞こえた施錠の音に、ぎろりとアーデンを睨みつけた。

「今鍵かけたでしょ!?」
「いやいや、防犯だよ防犯。オレこの国ではあんまり好かれてないからさ。怖い人来たら嫌じゃん」
「……あなたが好かれてる国ってどこ…?」

ラークスが小さな声でそう言うと、酷い事言うねと両手を広げて頭を軽く振った。

仕方なしに手荷物を椅子に置き、ふと室内を見回してみると実に豪華な作りの部屋だと思った。真っ赤なソファに黄金色のカーテン、複雑な模様の床は鏡の様に磨かれテーブルの上には冷えたワインが用意されている。
宰相ともなるとこんな上等な部屋に寝泊まりできるものなのだろうか。

ラークスが物珍しげに室内を眺めていると、隣の部屋からアーデンに名前を呼ばれた。

「ラークス、ちょっとこっちにおいで」
「はい、なんです…か…」

そこは寝室になっていて、キングサイズの大きなベッドが置かれている。アーデンはその上に横になり、自分の隣をぽんぽんと叩いて寝てごらんと言った。

「…寝ませんよ…」
「すっごく寝心地いいよ。オレこのまま寝ちゃいそう」
「寝ればいいじゃないですか。起こして差し上げますから」
「オレの秘書辞めたらなかなかこんなスウィート入れないよ?思い出だと思って寝っころがってみなって」
「……………」

そう言われると、少しだけ横になってみようかという気になる。そろそろとベッドに近づき、アーデンから距離を取ったベッドの端っこに腰を下ろしてからゆっくりと身体を横たえた。

「…あ…凄い…」
「…でしょ?」

まるでとても大きな掌の上に横になっているような感覚だった。程よい固さのマットは身体が沈みすぎる事もなく、けれど不思議とフィットするような柔らかさがある。
普段使っている軋むベッドとは大違いだとラークスは思った。思わず、気持ちいいと正直な感想が口から洩れる。

アーデンは笑みを浮かべてごろんと身体を回転させ、ラークスのすぐ隣で右ひじをついてその顔を見下ろした。

「…近いんですけど…」
「いいじゃない、見てるだけだろ?横になってるラークスなんて初めて見るからさ」
「それは、あの執務室で横になってたらおかしいじゃない…」
「オレはよくソファで寝てるけどね」
「…宰相だからいいんじゃないですか…?」

逸らしていたいた目線をアーデンに向けると、嬉しそうに笑みを深めた。
その顔をよく見ると、下まつ毛が目頭から目じりまでみっちりと生えていてアイラインを引いているように見える。
グラディオラスも相当睫毛の長い男だったけれど、この宰相も目元は美しいと思った。

引き込まれるようにしばらくその瞳を見ていると、アーデンはラークスの髪に手を伸ばして一束手に取りさらさらと落とす様に弄り始めた。

「ラークスの髪の色、オレと少し似てるよね。赤ワインみたいな色だ」
「…宰相はフルボディってところですね」
「なら君はライトボディかな」

そう言って、ラークスのメガネを外してサイドテーブルに置く。

「ところでさあ、キスしてもいい?」
「……唐突ですね」
「うん、急にしたくなったんだ。いい?」
「…一回にカウントしてくれるなら…」
「うーん……いいよ別に」
「え…いいの…?」

まさか了承されるとは思いもよらなかった。これで一回目が済むのなら、なんとか乗り切れるのではないかと思えてくる。
それならばと首を縦に振ると、アーデンはラークスに覆いかぶさり間を置かずに唇を塞いだ。
唇を軽く開いて、何度も角度を変えながら受けるキスは昨日不意打ちにされたそれとは比べ物にならないほど情熱的だった。
ぎゅっと閉じていた目を薄く開いてアーデンの顔を見るとその瞳はしっかりと閉じられていて、何故かラークスの方が少しだけ恥ずかしくなる。

そのうち人差し指を口の端にねじ込み歯の間に隙間を作らせるとそこから舌を挿し入れた。
思わずアーデンの両肩を掴むと、その腕を取られベッドに強く押し付けられる。中を強く吸われれば、今度はラークスの舌がアーデンの口内に引き込まれた。

「…んう…ちょ…っと宰相…」
「黙って」

感じた息苦しさに少しだけもがくと、上半身を強く抱きしめられてそのまま身体を起こされた。
のけ反る様な体勢でさらに激しくキスを貰い、そのうちくらくらとめまいを感じてアーデンの服を掴んでいた手から力が抜けてくる。
長い時間たっぷりとラークスの唇を楽しんで、満足したアーデンはようやくぐったりとなった身体を解放した。

「ごちそうさま」
「……うそつき…」
「嘘なんてついてないよ。キスしかしてないだろ?」

軽く笑って力の抜けたラークスを右腕に抱きそのまま横になる。

「…昨日と、違うじゃない…」
「そりゃあね。だって身体を貰う代わりにキスで許してやるんだから」

いまだにぼんやりとした状態のラークスの髪にそっと唇で触れ、左手を身体に回して少しだけ力を入れて抱きしめた。

「ぐったりしちゃって…そんなに気持ちよかった?」
「……久しぶりだから疲れただけ」
「もしかして、こっちに来てから男作ってないの?」
「作るわけないでしょ」
「へえー、ルシスにいる彼のため?」
「……めんどうだし」

ラークスが小さな声で言うと、一途なんだねとアーデンが笑った。

「でもね、オレもこう見えて思い続けるタイプなんだよね」
「あなたが?嘘でしょ」
「二年だよ二年。オレがずーっとラークスだけ見てるの」
「……私だけ?」
「…だけ…っていうか、メインで?」
「……そろそろ放して」

ワントーン低い声でそう言ってアーデンの腕を外そうとすると、もう少しだけいいじゃないかとラークスを宥めた。

男と言うのは一人の女では満足しないものなのだろうか。
グラディオラスも常に複数の女性を周囲に置いているような状態だった。無骨なようでいて、その辺りだけは器用なのだから憎たらしい事この上ない。

「いい加減なのよね…傷つけても謝り倒せばこっちが折れると思ってる」
「でも許しちゃうんだろ?結局惚れた方が負けなんじゃないの?」
「………勝ち負けっていうのがそもそもおかしいでしょ」
「オレはラークスに負けたんだけどね。普通スパイなんて生かしちゃおけないよ、確実に処刑。でもオレには君を殺せないからさ」
「…………」
「政治的立場のある人間が一人の女スパイにほだされて逃がしたなんて知れたら、ほんとオレだって危ういんだから。分かる?」

それくらいの事はラークスでも理解できる。
けれどどうして宰相ともあろうこの男が、地味で刺激も面白味もない女を相手にしようとするのかが納得いかなかった。

「あなたって物好きなのね…変わり者って言われるでしょ」
「ああ、よく言われるね。趣味が悪いとか正気じゃないとか散々」 
「…ケンカ売ってるの…?」
「いやいやそんな事ないって…!ところでさ…」
「何よ!」

目を吊り上げて怒鳴ると、アーデンが壁の時計を指さして言った。

「時間、過ぎてるけど」
「ええ!?」

勢いよく身体を起こして時間を確認すると、約束の時間から15分近くが過ぎている。

「やだ…大変!宰相、早く行きますよ!!」
「はいはい」

仕事モードに入った途端に敬語に戻るラークスがおかしくて笑いが込み上げてくる。器用なのか不器用なのか分からない女だとアーデンは思った。





その後カメリア首相との会談を終え、二人がグラレアへ戻ったのは夕方になってからだった。
いつになく疲れた様子のアーデンは、今日はもう帰ろうかと言った。

「だいぶお疲れのようですね」
「…オレさあ、あの首相と話すと体力減るんだよね…ほんと苦手だわ。今日はもうお開きにしよう…」
「ではお先に失礼します」
「ええ、先に帰っちゃうの?飯行こうよ」
「私は自炊派ですので」

そう告げると、ラークスはバッグを手にしてさっさと執務室を後にした。外に出て上空を見上げると、分厚い雲が空を覆っている。

「雨が降りそう…急いで買い物して帰らなきゃ」

確か冷蔵庫の中身はろくなものが入っていなかったような気がする。スーパーマーケットへと向かい、大量の食料品を購入して家路を急いだ。
店を出たところでぽつぽつと雨が降り始め、ラークスの住むマンションが見えた頃には雨脚が強くなっていた。

息を切らしてようやく部屋の前にたどり着き、両手の荷物を足元に置いた。濡れたスカートが太ももに張り付きどうにも気持ちが悪い。

「もうびちょびちょ…早く着替えなきゃ」

そう呟いてバッグのポケットを探る。するといつも鍵を入れている場所にはそれが見当たらなかった。

「あれ…?鍵……ない…」

全てのポケットを探し、さらにはカバンの中身をひっくり返してみるもサボテンダーのキーホルダーの付いた鍵がどこにもない。
真っ青になり、その場に立ちつくしてしまった。

「…どうしよう…!どこで失くしたの……あ、そうだ!合鍵……は家の中だよ!!」

馬鹿だと声を出し、外へと視線を向ける。今から仕事場へ戻ろうにも傘のない状態で土砂降りの中を行く選択などできなかった。
地面に置いた買い物袋を見下ろし、購入した冷凍食品をどうしようかと項垂れた。

濡れて冷えた腕をさすり、はあと深いため息をついた時背後から声をかけられた。

「ラークス」
「……宰相?」

振り返るとびしょ濡れのアーデンが立っていた。
いいタイミングだと言ってラークスの前まで来ると、ズボンのポケットから何かを取り出して顔の前に突き出した。

「忘れ物。これ、君の鍵だろう?」
「あ…!それ、どこにあったんですか?」
「コートハンガーの下。バッグもそこにかけてるだろ?落ちたんじゃないかな」
「……ありがとうございます。わざわざ届けてくださって…」

正直本当に助かったとラークスは思った。友人さえいないこのグラレアで、こんな時に誰一人頼れないと言うのは中々大変なことなのだと今さらながら実感した。
受け取った鍵でドアを開け玄関に入り、外に立つアーデンに視線を向ける。
土砂降りの中鍵を届けてくれた人間をそのまま帰すほど、ラークスは冷酷にはなれなかった。

「どうぞ」
「あ、入ってもいいの?」
「服がびしょ濡れだし、乾かさないと風邪ひきますよ」

促されて入ったラークスの部屋は、女性らしい小物や観葉植物の多い小奇麗な部屋だった。そのクールな性格から、無機質な室内を想像していたアーデンは意外に思った。
大きなバスタオルを受け取り、濡れた身体を拭いながらリビングを見回す。

「けっこう可愛い部屋だね。女の子らしいと言うか」
「そうかしら…あ、服どうしますか?脱いで乾かした方が…」
「あー、じゃあコートと……ズボンも脱いでいいの?」
「……ズボンははいててください…」
「だろうね。じゃあコートと上着だけ乾かしておいて」

そう言うと、アーデンはその場で上半身だけ裸になった。普段厚着で隠されていたその身体は、意外にも筋肉質で逞しいものだった。
きれいな身体ですねと思わず本音がこぼれる。

「ほんと?なんだ嬉しいな。この身体、ラークスのものだから好きにしていいよ」
「………いえ、いらないです…」
「遠慮しなくていいのに」

アーデンからコートを受け取ると、ポケットの辺りがもぞもぞと動いている事に気が付いた。

「…な、何これ…!何か入ってますよ!?」
「あ、忘れてた」

ポケットに手を突っ込み、引っ張り出したものを見てラークスは目を丸くした。ずぶ濡れで掌ほどの大きさしかないそれは、アーデンの手の中でにゃあと鳴いた。

「………こ、子猫…」
「ここに来る途中雨の中鳴いててさ、これだけ小さいとほっといたら死んじゃうかもしれないだろ?だからさ、はいお土産」
「はあ!?ちょっと待ってお土産って…私が育てるの!?」
「だってオレ忙しいし」

しれっとそう言うアーデンに、私だって忙しいと言い返す。押し付けられた子猫は寒さから身体を小刻みに震わせて小さく鳴いている。
ラークスは大きくため息をついて、持ってきたフェイスタオルで身体を拭ってやった。

「猫なんて飼ったことないのに…」
「我が儘な男の相手するより簡単だと思うよ」
「………じゃあ自分で飼えばいいじゃない!」

しばらくごしごしと拭いてやると、柔らかな毛はすぐに空気を含んでふわりと膨らんだ。赤茶色の長い毛をしたその子猫は、どことなく目の前の嫌味な宰相に似ていると思った。

「へー、けっこう可愛い猫だね」
「お腹空いてるのかしら…色んなところの匂い嗅いでる」

ラークスは台所へ行き冷蔵庫を開けミルクを取り出した。それを小鍋で人肌に温めて皿に移し、子猫の前に置いてやるとしばらく匂いを嗅いでからぺろりと舌先で舐めた。

「良かった、ちゃんと飲んでる」
「…そうだラークス、もう一つ忘れもの」

そう言ってズボンのポケットから取り出したのはラークスから盗み取った銃弾だった。

「これで残り五分の四だな」
「……うん…でも、本当にいいの?」
「まあオレがいいよって言っちゃったし…でもラークスがどうしても五回したいって言うな」
「あと四回ね。はいありがとう」
「…………」

弾を受け取り、ダイニングテーブルの上の灰皿に置いた。
するとミルクを平らげた子猫がアーデンのズボンの裾で遊び始めた。片手で抱き上げ、名前をつけてよとラークスに言う。

「…名前か…」

アーデンの指を甘噛みする子猫と、それを抱く男の顔を交互に見るとやはり良く似ていると思った。
ラークスは少しだけ笑って子猫の頭を撫で、

「イズニアにするわ」

と言った。

「へ?イズニア?」
「そうよ、ちょっとあなたに似てるでしょ」
「オレの名前……」
「悪い事したら叱ってやるわ。ねえイズニア、せいぜいいい子にしてるのよ」

アーデンの手から子猫を受け取り、その小さな顔を親指で揉む様に撫でる。
自分の名前を取られたアーデンは少しだけ困ったように笑ってから、ラークスから子猫を取り上げテーブルの上に置いた。
腕を伸ばして抱き寄せ、濡れてひんやりとしたままのラークスの額に自分の額をくっつける。

「オレの代わりに可愛がってやってね」
「……うんと厳しく躾けるから…悪さしたら追い出してやる」
「怖いなあ。大丈夫、イズニアはとってもいい子だからさ」

囁くようにそう言って、ラークスの鼻の頭にキスをしてからそのまま唇にも優しく触れた。
アーデンから受ける今日二度目の口づけはカウントしないでおいてやろうとラークスは思った。






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