第4話

今日予定していた検査が全て終わったのは、研究所へ入ってから2時間ほど過ぎた頃だった。簡素なスチール製のベッドの上で寝かされたフィオレはいまだ静かな寝息を立てている。
手を伸ばし、枕に広がる髪に触れてみる。手触りは絹糸の様に滑らかで、細いけれど弾力がある。光の加減で緑とも青とも取れるような輝きを放つ不思議な色だ。
ルージュでも塗っているのかと思うほど鮮やかな色合いの唇や、夜露に濡れたような艶めいた睫毛を見ていると、この娘が人でないなど到底信じられない。

フィオレはアーデンがこれまで見た中で、最も美しいシガイだった。

ふとフィオレの手首に目線を移すと、検査の際に着けられた拘束具の痕が赤く残っている。アーデンの左の眉が僅かに上がる。
それを消すかのように親指で撫でていると、指先が二、三度小さく動いた。

「……んん…」

右手で目元を擦り、身体を捩るようにして伸びをした。大きな口を開けてあくびをしてからゆっくりと瞳を開いたフィオレと視線が合う。

「…あ…」
「おはようフィオレ。よく寝てたね」
「……ここ家じゃなかった…」

身体をゆっくりと起こし、少しだけ恥ずかしそうに口元を隠した。

「私ずっと寝てたんだ…もう検査は終わりなの?」
「ああ、今日の検査はこれで全部。どこか調子の悪い所はない?」
「うーん、今のところは何ともないわ。あぁ、ひとつだけ…」
「ん?どうした?」
「……お腹すいちゃった」

そう言って右手で腹をさすった。検査のために朝食を抜いたせいで、フィオレの腹の虫は今にも鳴きだしそうだった。
少しだけ笑ったアーデンは、飯にしようと言ってフィオレの手を取りベッドから下ろした。

「もうすぐ昼の時間だからさ、飯ついでにグラレアの街を見て回ろうか。いろんな店あるから楽しいと思うよ」
「本当!?」
「ああ、着替えておいで」

帝都を散策するなどこの先二度とないかもしれないのだから、どうせならプロンプトにカメラを借りてくれば良かったとフィオレは思った。
検査着を脱ぎ、部屋の外で待っていたアーデンと一緒に初めてのグラレアへと向かう。

「ねえおじさま、おじさまはこの国の偉い人なんでしょう?護衛を付けずにふらふら出歩いても大丈夫?」
「護衛なんて付けないよ。危険なことなんか一度も起きたことないし、なにしろ邪魔だからね」
「ふうん…ノクトはいつも兄さんたちと一緒だからなあ」
「まあ彼は王子だからね。オレはただの宰相、自由なもんだよ」

アーデンはそう言うけれど、宰相という大きなポジションにただも何もないだろうにと軽くため息をつく。本来ならばきっと、こうして二人で街を散策することなど出来ない相手のはずなのだから。




帝都グラレアは高層ビルやマンションが数多く立ち並ぶ街だった。故郷のインソムニアも相当な大都市だったけれど、機械文明の発達したニフルハイムらしく見たことのない重機があちこちに見える。
歩きながら街ゆく人々を眺めてみるが、こちらは帝国人と言えどその風貌は至って普通である。ルシスで見かける帝国兵や魔導兵のイメージがフィオレにとってあまりいいものではなかったのだが、さすがに民間人はルシス人と大きな変わりはないようだと少しだけ安心した。

「どう?初めて見る帝都は」
「どんな人たちがいるんだろうって少しだけ恐かったんだけど、みんな普通なのね」
「そりゃあそうだよ。まあ、君たちにとって帝国の印象は良い物じゃないって言うのは想像できるけどね。それはあくまでも政治や軍事に関わる人間のせいなわけでさ、ここで暮らしてる一般人はごく普通」
「うん、ホッとしたわ。みんな普通に歩いてるし笑ってる」

フィオレがそう言うと、一体どんな想像をしていたのかとアーデンが笑った。

「さてと、腹減ってるんだろ?何が食べたい?」
「うーん、何でもいいからお腹に入れたい気分」
「何でも…ってのが一番困るわけだけど」

のんびりと歩きながら辺りを見回し、アーデンは一軒のカフェの前で立ち止まった。

「ここ、どうかな」
「…わあ、なんだかすごくオシャレ!」

緑色の壁に真っ赤なオーニングが設えられたそのカフェはテラス席が多く、今日のような晴れ渡る空の下で飲むお茶はさぞかし美味しい事だろう。
店先のイーゼルに置かれたメニュー表には写真付きで見た目も美しいランチやデザートが載っている。
フィオレがここにすると言うと、日陰の席へと案内された。

「ここさ、食い物も美味いしデザートも色々あって酒も揃ってる。天気がいい日は昼間からテラスで飲むってのもいいよね」
「おじさま、こういう所に一人で来るの?」
「いやあ、さすがに一人では来ないけどねえ。こんなおじさんが若いモンに混じって一人でこういう所にいたらおかしくない?」
「……べ、別におかしくはないけど…」

なら誰と来たのだろう。
少しだけ気になって、アーデンの左手に視線を移す。しかし指先の開いたグローブを嵌めているため、その薬指に既婚者の証拠があるかどうかは分からなかった。

「フィオレ?どうしたの、決まった?」
「あ…!う、うん。私えーっと…このランチプレート。ハーブ鶏胸肉のフリカッセきのこ風味。おじさまは?」
「オレはロジャー・グラート カヴァ ブリュット」
「…なにそれ?」
「スパークリングワインだよ。暑いからね」

昼間から飲むのかとフィオレに聞かれ、水みたいなものだとアーデンが言う。
店員を呼び注文を済ませ、先に運ばれてきたアイスティーを飲みながら街の人々をもう一度よく観察する。フィオレが生まれ育った街で見る光景と何ら変わらない景色がそこにはある。
若い男女や子供から年寄りまで、皆一人一人の穏やかな日常を当たり前の様に過ごしている。他人から聞いた帝国の話を鵜呑みにし、勝手に悪い印象を持ち続けてきたことを少しだけ恥じた。

それから美味しいランチに舌鼓を打ち、さらにその後生クリームとベリーソースをたっぷりと乗せた大きなパンケーキまで平らげてアーデンを呆れさせた。

カフェを出てから街を歩いていると、一軒の時計屋が目に入った。足を止め、入ってみてもいいかとアーデンに尋ねる。

「いいよ、時計好きなの?」
「…兄さんたちにお土産買おうと思って。素敵なのがあれば…」

店内に足を踏み入れると、所狭しと大小様々な時計が置かれている。掛け時計からからくり時計、置時計だけでも何十種類もある。
それらが天井から吊るされたライトの控えめな光に照らし出され、どこか幻想的な雰囲気さえ漂う。
ほうとため息をつきながらそれらをゆっくりと見回していると、一角に懐中時計のコーナーを見つけた。

「わあ…スケルトンの懐中時計…」

通常の時計の様に不透明な文字盤で覆われておらずガラスで蓋がされているので、風防に直接機械音が反響して時を刻む音がより鮮明に聞こえる。
機械式時計の内部に隠された歯車の繊細な動きを見ていると、それこそ時の流れを忘れてしまいそうだとフィオレは思う。

「これ…兄さんにぴったりだ」

規則正しく動く美しいその懐中時計を見て、フィオレは兄イグニスを思い出した。ドーナツ状の文字盤部分の色違いを四つ手に取り、年老いた店の主人に手渡す。

「これは贈り物かなお嬢さん?」
「ええ、箱に入れてリボンを付けて欲しいの」
「じゃあ、文字盤と同じ色のリボンで包むからそれを目印にするといいよ」
「ありがとう…!」

さりげない心遣いに嬉しくなる。リュックから財布を取り出し店主が丁寧に箱に詰めるのを眺めていると、アーデンがフィオレの肩に触れた。

「オレが出すよ」
「ううんいいの!私が自分で買いたいの」
「四つも買ったら結構高額だよ?オレなら経費で落とせるし」
「…私ね、これまで兄さんに妹らしいこと一つもしてあげてないんだよね。だから一度くらいお礼しないとなあって…」
「兄らしいことっていうのは良く聞くけど…妹らしいことねぇ」
「……ほら私…その…普通の妹じゃないから、色々と…心配も苦労もうんとかけてきたし」
「そうかなあ。お兄さんにしてみれば妹はフィオレしかいないんだよ?普通とか普通じゃないとか、そんなこと考えたことはないんじゃないかな」

そう言うアーデンに、フィオレは少しだけ寂しそうな笑顔を向ける。

「兄さんね、私がいないとダメなんだ。少しでも離れるとすっごく心配しちゃって…逆じゃないかって思うでしょう?私もいつまでも兄さんに守られてばかりじゃいけないから少しずつ離れなきゃなって思うんだけど…許してくれないの」
「あー…それはなんとなく分かるけどね」
「兄さんの事は大好きだけど、私と兄さんの人生は違うでしょ?そのうち結婚して家族持つことだって…その時私はきっと荷物になる。でも優しいから、自分が新しい物を得るために私を捨てるようなことは絶対にしない。出来ないと思う…大げさじゃなく、兄さんの人生の半分くらいは私が貰っちゃってるの」
「君の方からお兄さんを捨てるしかないんじゃないの?」
「……うん…」

こちらの会話が聞こえているのかいないのか、カウンターの向こうで店主は黙々と小さな箱にラッピングを施していく。
その手元をじっと見つめながらフィオレは言う。

「自立しなきゃって思ってるのにね。優しい兄さんに甘えてここまでずるずるきちゃって…私に、兄さんの側以外に居場所なんてあるかも分からないんだよね」
「だったら、ここにいればいいんじゃないかな。オレは歓迎するよ?」
「………正直言うと、私も兄さんから離れるのが怖い。今、この白い文字盤の懐中時計見たら…兄さんを思い出しちゃった」
「……んー…なるほどねぇ」

兄と離れてたった一日でホームシック状態なようだ。自分がここにいろと言えば無条件で喜ぶと思っていたが少々甘かったようだとアーデンは小さく唸る。
イグニスとフィオレの関係が恋人同士であるならばその間を引き裂くのは極簡単なことだが、家族という繋がり思いの外強固なようだ。
互いに強く依存し合ってここまで生きてきたならばそれも当たり前なのかもしれない。
フィオレにとって兄はすぐ隣にいて当然の人間であり、生きていく上で欠かせない命綱のようなものなのだ。それに代わるほど太く強い存在でなければ、恐らくフィオレの気持ちは動かないだろう。

フィオレにはあくまでも自分の意志で側にいてもらうことがベストだと思っている。その為にはこの妹と兄の絆を、切り口は出来る限り美しい状態で、かつ音を立てずに引き裂く必要がある。
互いを思い合ったまま離れる。それにはやはりフィオレの治療を名目とすべきだとアーデンは思った。

アーデンとフィオレの会話が途切れたところで店の主人が話しかけてきた。

「お嬢さん、この白い文字盤の懐中時計をお兄さんにプレゼントするのかね?」
「ええ、そのつもり」
「だったら、蓋の裏側にメッセージを掘ってあげようか。お兄さん、喜ぶと思うが」
「本当ですか!?ありがとう!」

フィオレは少しだけ悩んで、手元の紙にボールペンで何かを書き込みそれを店主に渡した。

「これでいいんだね?」
「ええ、お願いします!」

その後、白と黒、そして赤と黄色のリボンが付いた四つの箱を紙袋に入れてフィオレとアーデンは店を後にした。

「フィオレ、メッセージなんて入れてもらったの?」
「ふふっ、内緒よ」
「あれ、教えてくれないの?」
「だって兄さんへのメッセージだもん!」

そう言って嬉しそうに笑う。

「喜んでくれるといいね、お兄さん」
「うん……ねえおじさま、もし…もしも私の身体が治ってまた人間に戻れたら、兄さんはもっと喜んでくれるかな…少しは兄さんの負担を減らせるかな」
「……ああ、そりゃあ、きっとそうだよ」

そんな治療法はないけれど。
もう数千年以上、人類は寄生虫が原因とされるこの病に苦しみながら生きている。どれほど多くの優秀な科学者が、星の病に対する特効薬の開発に挑み、そして倒れていったか。
いかに文明が発展しても、人類はプラスモディウム変異体への対抗策を何一つ取ることができていないのだ。

最も、万が一フィオレの身体に対しシガイ化を緩和させる手段があったとしてもアーデンはそれを施すつもりなど一切無いわけだが。






それから十日ほどが過ぎた頃、フィオレの検査もついに最終日を迎えた。
研究室の中央にある円形の台に寝かされ、青みを帯びたライトの光を受けたフィオレの顔を見る。ふっくらとしていた頬が少しだけ痩せたかもしれない。

椅子に腰を下ろし、手元に届けられた膨大な検査結果のレポートに目を通す。そこにはアーデンが予想していた以上のフィオレの状態が示されていた。

「……フィオレの体内に取り込まれたプラスモディウム変異体の遺伝子が更に変化してる。他者の病を勝手に吸い取るのはこのせいか…?いや、フィオレは母親の病を全て吸収して生まれて来たからそうじゃないか…元からの体質ってことになるな」

アーデンもかつては星の病に感染した者を救うために自らの意志で寄生虫を体内に取り込んでいた。
しかしフィオレの場合はアーデンや、同じように人を癒す力を持つルナフレーナとは根本的に異なるように思える。

「身体を巡る変異体が飽和状態になりシガイ化してもなお吸収を続けてる。しかもオレの思った通り、黒色粒子の放出がほとんどない。ただひたすら感染源を吸い取るようだな…これは遺伝子の変化が原因だろうねえ」

星の病の原因となる粒子を出さず、かつ病魔を取り去ってくれる存在など救世主そのものだ。しかしそんな都合のいい存在があるだろうか。短くため息をつき髪をがしがしと掻いたとき、ドアが開きヴァーサタイルが入ってきた。

「どうだ?この娘の驚くべき身体。長年多くのシガイを見てきたがこんな例は初めてだ。こっちを見てくれ、娘の遺伝子のデータだ」
「……フィオレの遺伝子そのものが、普通じゃないってことか」
「ほんの僅かな遺伝子の欠損が原因だ。たったこれだけでこの娘は取り込んだ寄生虫を変異させ究極のシガイとなったわけだ!」 
「究極のシガイねえ…」
「外見的変化の無さ、さらに病の原因となる黒色粒子を出さない。しかもこの娘、ルシス王家の血筋だな?一体どこで拾ってきたのだ」
「…………」
「この娘から同じ遺伝子を持つ人間を作り出せば、より安全にシガイ兵器を増産できると思わんか?しかも魔法を使うことも可能かもしれん!我らが帝国の軍事力がさらに絶大なものとなるぞ!」

アーデンは静かに寝息を立てるフィオレに視線を落とす。やはりその穏やかな寝顔はどこからどう見てもごく普通の女にしか見えない。
帝国の生臭い魔導兵製造やシガイ研究とは無縁であるべきだと思っている。

「今回はこの女の検査のみで実験の許可が得られなかったからな…恐らく隠された力があるはずだ。ある種の刺激やストレスを与えれば、その肉体に変化が現れ本来の姿を見る事が出来るかもしれない…!」
「オレはこの子が化け物になった所なんて見たくないよ」
「化け物などと…シガイはあらゆる可能性を秘めた優れた生物兵器だ。どうかな、この娘を研究対象にしてみては。必ずや貴殿の満足いく結果が出るだろう」
「…オレはもう満足してるよ。それに、貴重な存在を君たちにおもちゃにされて壊れでもしたら困るからねえ」
「………アーデン、その娘をどうするつもりだ…飾って置いておくだけか?」
「ああ、そのつもりだよ。さあ、そろそろこの子が目を覚ますから…お疲れさん」
「…………」

理解できないとでも言いたげに軽く頭を振り、ヴァーサタイルは部屋から出て行った。姿が見えなくなるのを確認すると、アーデンはフィオレが寝かされている台に上った。
眠るその身体を見下ろす様にして跨ぎ、右手の人差し指と親指でフィオレの頬を挟み込んで少しだけ力を加える。
唇が開いたところでふうと腹の中の空気をすべて吐き出し、そのまま背中を丸めてフィオレの顔に近づく。口を少し大きく開いてフィオレの唇を隙間なく塞ぎ強く息を吸った。
するとアーデンの体内に、フィオレに取り込まれ寄生虫化したプラスモディウム変異体が流れ込んでくる。

十分吸い取った所で顔を離し、口元を押さえそのまま5秒ほど過ぎた頃、突然強烈な吐き気に襲われた。近くの流しで今朝食べた物と一緒にフィオレからもらった寄生虫を吐きだす。
腹が空になっても強い嘔吐がしばらく続き、ようやく収まった頃には脱力感に襲われた。

何度も口をすすぎ水を飲み、少しだけふらつきながらフィオレの側まで行き台に腰を下ろす。

「…オレじゃあこの変異体に耐えられないってことか?これだけのモンを身体いっぱいに入れてて何ともないってどういうことだろうね…」

自身と極近い特徴を持っているのではないかと言う予想を立てていたアーデンだったが、フィオレはそれよりもよほど大きく強い器を持っているのかもしれない。
この娘が、星の病に感染した者が無慈悲に処刑されるような時代に生まれて来なかった事を心から安堵する。

「ああ……参ったな、疲れた…」

アーデンはいまだに目を覚まさないフィオレの隣に横たわり、大きなあくびをひとつして閉じかけた瞳でその顔を見た。まるで子供の寝顔のようだと思う。
明日にはフィオレを兄の元へと返さなければならない。そうなると、次に会うまでにはこの先フィオレがアーデンの側で永遠の時を生きるか、それとも二度と顔を見る事さえ叶わないかが決まる。

「なに、君は絶対オレを選んでくれるだろ?これほど理解し合える存在は他にいないんだからさ」

白玉のようなフィオレの頬を指先でつつくと、むにゃむにゃと口を動かして笑みを浮かべた。つられてアーデンも少しだけ笑う。
もう一度あくびをし、まだ気持ち悪いと呟いてから眠りについた。





翌日、フィオレは荷物をまとめて帰りの身支度を整えていた。
やっと兄に会えると言う安堵の思いと、アーデンと別れなければならないと言う寂しさ、二つの感情に軽くため息をつく。
そこへ、部屋のドアがノックされアーデンがやってきた。

「フィオレ、準備はいいかな。忘れ物はない?」
「おじさま…うん、大丈夫よ」
「ちょっと帰る前にさ、来てほしい所があるんだよね」
「来てほしい所?」

アーデンに連れられ研究所を出てエレベーターに乗り、上階へと向かう。ドアが開き、降りるよう促されてさらに少しだけ歩いて行くと、アーデンが大きな扉の前で立ち止まった。

「はい着いた。ここだよ」
「ここ?何のお部屋なの?」
「オレの部屋。ようこそフィオレ」

そう言って慇懃な振る舞いでドアを開く。
中はとても広く、大きな窓があるものの天井から真っ赤なビロードのカーテンが取り付けられ日の光は隙間から差し込む程度しか入ってこない。人工光は僅かなダウンライトのみで室内は薄暗かった。
おいでと手招きされ、フィオレは少しだけ胸をドキドキと鳴らしながらアーデンの部屋へと足を踏み入れた。兄以外の男の部屋に入るのはこれが初めてだった。

「適当に座って。今紅茶淹れるから」
「…おじさま、ここに住んでるの?」

奥の簡素なキッチンで湯を沸かすアーデンにそう尋ねる。

「そうだね、ほぼ毎日ここで寝泊まりしてる。他人を入れたのはフィオレが初めてだよ」
「……ほぼ毎日ここで……ご、ご家族とは離れて暮らしてるの?」
「家族?」

勇気を振り絞り、ずっと思っていた疑問をぶつけてみた。返答次第でフィオレは人生初の失恋を経験することになる。
アーデンが二つのティーカップを手にしてフィオレの座っているソファーの前に戻ってきた。

「オレは独り身だから家族はいないよ。はいどうぞ」
「あ…ありがとう……おじさま独身なんだ」
「あ、もしかして気にしてた?フィオレの手、握ったりしてたから。どういうつもりなのって?」
「べっ……!別に気にしてたとかそう言うわけじゃ…!」

フィオレが顔を真っ赤に染めて顔をぶんぶんと横に振ると、アーデンは両方のグローブを外して大きな手を広げて見せた。

「ね、指輪はしてません」
「………うん、分かった…」

顔が熱く額に汗が滲む。急いでリュックを手繰り寄せてハンドタオルを取り出したとき、一緒に詰め込んであった大量の荷物が零れ落ちた。

「あぁっ…!んもう…兄さんったらこんなにマジックボトル入れて…!結局使わなかったのに…」
「しかしフィオレのリュック大荷物だね。何を入れて来たの?」
「ちょっと衣装がかさばるの」
「衣装…って何の衣装?」

アーデンがそう聞くと、フィオレはリュックの一番底から長い布を取り出した。

「私ね、小さい頃から宮廷舞踊って呼ばれてる踊りを習ってるの。本当はルナフレーナ様に結婚のお祝いとしてお見せする予定だったんだ」
「へえ、宮廷舞踊。ルシス王国で流行ってるの?」
「ううん、ルシスでも珍しいかもしれない。どこかの異国の踊りらしいの、詳しい事は良く知らないんだけどね。でもとっても優雅な踊りなんだよ」
「優雅か…いいねえ。見てみたいな」

するとフィオレがにっこりと笑って、特別に見せてあげると言った。

「紅茶のお礼よ。少しだけ待っててね、着替えてくるから。バスルーム借りるね」

そう言ってリュックを抱えてフィオレは奥へと消えて行った。しばらくすると、着替えを終えたフィオレが足音を立てずにアーデンの前に現れた。

鮮やかな濃いブルーの衣装は、一見するとウエスト部分が絞られた長いガウンのような作りになっている。
下には裾の広がった緩やかなズボンを履いており、その生地は非常に薄く、羽織物の隙間からフィオレの細長い足が透けて見えている。
特徴的なのは、袖部分からやけに長い布が伸びているところだった。ゆうに数メートルはあるのではないかと思うほどだ。
異国の踊りだとフィオレは言っていたが、確かにこれまでアーデンが見たことのないデザインの衣装だ。

また顔にもしっかりと化粧を施している。赤い口紅に、目じりにも赤いアイラインを入れ、また額には四つの小さな点でひし形を作っている。
いつもノーメイクのフィオレが、この時はいくばくか大人びて見えた。そして黒い髪を高い位置で結わいているので、フィオレの真っ白い首から鎖骨まで薄暗い部屋に浮かんで見える。

「不思議なデザインだね。でも、とっても良く似合う」

アーデンの言葉に笑みを浮かべたフィオレは、部屋の真ん中で静かに立った。両腕を広げくるくると回ると、羽織の裾がゆったりと広がり袖から伸びた長い長い布地が円を描く。
腰を動かすたびに柔らかい衣装が跳ね、フィオレが腕を振るうとその風がアーデンの元へと届いた。
全体的にスローテンポな動きの中で、時折ダイナミックに足を上げると衣装から肌の透けた足がよく見え、また身体を傾ければ羽織がはだけ華奢で女らしい肩が現れる。

優雅で、そしてとても艶のある舞を見せてくれた。
ソファーから立ち上がったアーデンは、フィオレの前で手を叩いた。


「…驚いたよ、そんな特技があったなんてね」
「ふふ、もう一つあるのよおじさま」
「もう一つ?」

フィオレはアーデンから距離を取った位置に立ち少しだけ挑発的に微笑んだ。そして両腕を少しだけ後ろに下げてから勢いよく前方に突き出すと、袖元の長い布がアーデンの両方の手首にぐるぐると巻き付いた。
突然自由を奪われたアーデンはあららと呟いて自分の腕を見た。

「ほらね、捕まえたわ!」
「こりゃあ器用なもんだね。捕まっちゃったよ」
「おじさまはもう私の言いなりよ」

嬉しそうに笑いながら巻き付けた布をぴんと張り、フィオレが両腕を横に大きく広げるとアーデンの腕も同じように左右に広がる。
そのままフィオレが身体を回転させれば操り人形のようにアーデンもくるりと回ってしまった。

「ね、面白いでしょう?」
「フィオレの言いなりか、それも悪くないな。でもさ…」

アーデンはフィオレと繋がった布を自分の腕に巻きつけながら絡め取り、徐々に彼女をこちらへと引っ張っていく。
反射的に抵抗するも強い力に逆らうことが出来ずにその距離が縮まり、とうとうフィオレはアーデンのすぐ目の前までやってきた。
最後に両腕を強く後ろに引けば、フィオレの身体はアーデンの胸に飛び込む様な形でぶつかってしまった。

「さあ、今度はオレがフィオレを捕まえたよ」
「もう…!おじさま…!」
「素敵な踊りを見せてくれてありがとう。やっぱり君は本当にきれいだ」

そう言って赤い顔をしたフィオレの額にキスを一つ落とす。突然の事に、フィオレは口を開け目を見開きアーデンを見つめた。

「…お…おじさま…」
「フィオレがまた、オレの所に帰ってきてくれるおまじない…ね?」
「………うん…」

控えめにアーデンの胸に顔を埋める。
兄が側にいてくれさえすればそれでいいと思っていた。人ではない自分が誰かを好きになるなんて許されない事なのに。
アーデンから与えられる全ての刺激が心地よく、この人が自分のものであればいいのにと心から思った。






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