非常事態の知らせ


御幸さんは野球部なんだって、と友人に報告すると、「何であんなに有名な人のこと知らないのあんた」と冷めた目で見られた。
うちの野球部は所謂強豪の一つで、そこで2年生のうちからレギュラー取ってる御幸さんは有名人らしい。全く知らなかった。

そして「有名」やら「レギュラー」なんて言葉を聞いてしまっては、一度くらい練習の様子を見に行こうと思っても仕方がないだろう。魔が差したと言ってもいいかもしれない。もう少しだけ御幸さんを知りたい。
今日の放課後は委員会があるし、その後でちょっとグラウンドまで覗きにに行ってみよう。

***


夕焼けで赤く燃えたグラウンドを倉庫の陰からこっそりと覗いてみる。少し距離があるけれど視力が両目とも2.0の私をなめないでいただきたい。
しかしせっかく見に来たというのに残念ながら今は休憩中のようだ。

「何だ、来て損した」

「もしかして俺に会いに?」

突然耳元で囁かれて驚いた。吐息がもろに耳に当たるのがくすぐったくて思わず手で押さえながら振り返ると、そこには練習着を身に纏った御幸さんが立っていた。

「な、何を!」

「はいはい、ちょっと静かにしてね。バレるとうるせー奴もいるから」

思わず大きな声を出すと、御幸さんは右手を倉庫の壁に、左手を私の口元にそれぞれ置いた。完全に閉じ込められてしまった私はその場で声も発せずに硬直するしかなかった。
顔が近い、触れられている、心臓がいやに大きな音を立てている。

「で、本当にどうしたんだ?一人でこんなところまで来て」

大人しくなった私を見て御幸さんは口を塞いでいた左手を退けてくれたが、未だにその右手は私の頭の近くにある。
背の高い御幸さんが腰を折るようにして屈んでいるせいで顔と顔が信じられないくらい近い。綺麗な目に至近距離から見つめられて、また心臓が跳ねた。

「えっと…」

正直にあなたを見に来ましたなんて口が裂けても言えない。何とかしてこの状況から抜け出そうとあれこれ考えるも、こんな時に限って上手い言葉が少しも出てこない。普段の減らず口はどこへいってしまったのか。

「まさか本当に俺に会いに?」

察しの良い御幸さんは私の様子から気付いてしまったようで、眼鏡の奥で目をぱちぱちと瞬かせてとても驚いている。
ああ、これは盛大にからかわれるぞ、変な勘違いもされるぞと私は腹を括った。
どうせ意地の悪い笑みでも浮かべるのだろうと思っていたら、御幸さんはあろうことか頬をほんのり赤らめて言葉を詰まらせてしまったじゃないですか。何ですかその顔は。

「別に御幸さんだから見に来たとかではなくてですね、強豪校の有名な選手らしい御幸さんは一体どんなものかと思っただけで」

「うん」

「別に選手としか思ってないですからね!私の個人的な感情とか一切入ってないですからね!」

「うん、みょうじちゃん。上手に墓穴掘るね」

自分でも支離滅裂だなと思いながらそれでも上手く喋ることができない。今度は左手で自分の口元を覆い隠す御幸さんと目が合わせられなくて下を向いた。

「これから練習再開すっから」

お互いに目を合わせないまま沈黙が流れた後、御幸さんが先に口を開いた。

「はい」

「ちゃんと見とけよ。野球部の俺を」

「…はい」

何で私は素直にはいとか返事をしてしまっているんだろう。普段はもっと上手く躱すことができるのに。絶対にこの甘ったるいぬるま湯みたいな空気のせいだ。

じゃあそういうことで、と屈めていた腰を伸ばした御幸さん。
やっと解放されると安堵したのも束の間。風で靡いていた私の前髪をそっと押さえて、さらけ出した額に唇を落としていった。

一瞬何が起きたのかわからずそれでも額に残る柔らかな感触にやっと理解が追いついた頃には、御幸さんは走り去ってしまっていた。

「これは、やり逃げってやつですか?」

遠のいていく背中に向かって小さく呟くも、奪われてしまった私のファーストデコチュー。

なんてこった。身に起きた非常事態を知らせるかのように心臓が早鐘を打っている。女の子にむやみやたらと触れる御幸さんは非常に危険な人物だ。

そして一番危険なのは、御幸さんなんかにときめいている私自身だ。
[prev] [next]

back