脳内辞典



【口付け】
8



発端は、何だったか。あぁ、そうだ。多分俺が女の子に呼び出されたからだろう。昼休み、指定された校舎裏に行ってみれば告白をされた。「恋人がいるから」とそれをお断りして、一緒に昼飯を食おうと戻ってみたらその恋人が異様なほど拗ねていたのだ。

そして、なんとそいつのへそ曲がりは部活が終わった今まで続いている。部室をひとしきり掃除したモップを用具入れに片付けて、ポケットに入れたままになっていたストップウォッチを籠に戻した。

「いい加減にしてくれる」

「なにが?」

痺れを切らしてそう声を掛けると、笑みを深めた隼人がしらばっくれる。さっきまで珍しく不機嫌な顔をして、ピリピリした雰囲気を振りまいていたくせに。後輩達もそれに触れるに触れられず、微妙な空気だった。当然のことだ。先輩、ましてやレギュラーなら尚更指摘なんて出来ないだろう。

オールラウンダー、クライマーと別メニューだった今日は、口煩い東堂も目敏い荒北も、隼人に気兼ねなく話せる福富もいなかった。因みに元凶の俺は委員会で遅くなっていたので詰みです、後輩達よすまないことをした。明日までには元に戻しておきます。

「機嫌悪いだろ」

「いや?そんなことないぜ」

そんな俺の決意を他所に、隼人は肩を竦めて座っていた椅子にふんぞり返った。筋肉質な体が威圧的な雰囲気を醸している。元々の顔立ちが柔和なのに不思議なことだ。それほど内側から刺々しさが滲み出ているのだろう。内心冷や汗もかきながら、俺はそっと腹の底の決意を翻した。

「そう、じゃあいい」

がっ、と椅子に置いてあった鞄を引っ掴む。これ以上藪を突いたら蛇どころか鬼が出てきそうだ、と隼人の直線鬼フォルムを思い浮かべて身震いした。あんな五割増しで口が悪くなった相手、口下手な俺なんて二秒で泣かされてしまうだろう。言い過ぎだろうか。視界の端で隼人が立ち上がった気配がしてそちらを向く。足元に置かれた自分の鞄を伏し目がちに見詰める彼は、ぼそり、と独り言のような音量で呟いた。

「なんで」

いじけた子供のような声色だ。一向にこちらを見ようとしない隼人に、鞄を肩に掛けながら近付いた。手が届く距離まで近付くと、目の前の大きな子供が俺の手をそっと握る。

「なんで、行ったんだよ、ナマエ…」

それは、明らかに今日の昼休みの件だろう。やっと不満を口にした隼人に、どことなく安心して肩の力が抜けた。鈍感な俺は抱え込まれるより言ってもらった方が助かるのだ。握られた手をゆらゆらと左右に揺らして、隼人の眉間に寄ったシワを覗き込んだ。

「すっぽかせばよかったか?」

「そうじゃなくて、呼ばれたときに断れただろ」

「手紙だった、隼人も見てたな」

「そうだけどさ…」

そうだけど。隼人がしゅんと肩を落とした。例え一方的に取り付けられた約束だとしても、ことわりもなくすっぽかすのは人としてどうなのかと考えてしまう。だから行っただけ。決して隼人への不義理と言うわけではないのだ。きゅ、と手に力を入れて動きを止めると、顔を上げた隼人と視線がぶつかった。揺れた瞳に、俺もゆっくりと瞬きをする。

「そもそも俺、隼人以外と付き合う気、無いぞ」

当然のことをわざわざ口にするのは、億劫だと思っていた。けれど口に出さなければ他人に伝わらないのは当たり前で、伝わらないからこそ相手に悲しい思いをさせてしまうことがある。それを良しとしなくなったのは隼人と付き合いだしてからだ。おおらかに見えて意外とナイーブなこいつが一喜一憂するのは見ていて楽しいけれど、決して傷付けたい訳ではないから。俺の言葉に一瞬泣きそうな顔で押し黙った隼人は、眉を下げて笑った。

「…捨てられるかと、思っ、ん」

むにゅ、と隼人の唇を自分の唇で圧し潰す。驚いて上体を引いた彼を追いかけるようにぐっと身を寄せた。ぎゅう、と重ねた手に力が入れられる。

「馬鹿言うなよ」

何を馬鹿なことを。そんなことを言う口は、分かるまで何度だって塞いでやる。くしゃ、と笑った隼人の唇に、もう一度唇を合わせた。







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