脳内辞典



【狂気】
7



「はぁ…なあに、これは」

とぷん、と、妙な液体の入った小瓶を揺らす。ガラスで出来ているらしく、蓋にハートの装飾があしらわれている。瓶自体が淡いピンク色で、中身の色は定かではない。けれど、まさかこんな仰々しい入れ物の中身がただの水なんてことは無いだろう。私にその瓶を差し出してきた男を下からじろり、と見上げると、大層興奮した様子で私に詰め寄ってくる。

「惚れ薬だ!これを蛇姫の食事に…」

そこまでで、私は視線をその男から虚空へ移す。どうやらこれ以上は聞く必要がない話らしい。何を言っているのか、この馬鹿は。蛇姫様のお口に入るものに食品以外の不純物を入れるなんて、ましてやそれで蛇姫様を惚れさせようだなんて。たかが雑用の海兵が、自惚れるのも大概にしたほうがいい。

「…死になさいよ…」

ぽつり、と小瓶を見詰めたまま呟く。なんだ、この忌々しい毒薬が。可愛らしい桃色の小瓶が見れば見るほど憎たらしい汚物に見えてくる。今すぐにでも、手が滑って床に叩き付けてしまいそうだ。思わず小瓶に爪を立てた私を見てか、目の前の男は狼狽えながら宥めるように宣った。

「そ、そう言わずに、一滴でいいんだ」

「有り得ない、ほんとうに、怒らないから死んで」

一滴だと。それこそ馬鹿な話だ。一滴で人間の気持ちを操作できるなど、本当に毒薬じゃないか。そんなに使いたきゃ勝手に豚の餌にでも混ぜてれば良い。本当に好きな人の食べるものに異物を入れるなんて、よくそんな事を考えつくものだ。

私は、海軍のシェフ、またの名を飯炊き女。毎日海兵のために飯を作ってはいるが、それはいつものこと。今更大して気合も入らない。けれど今は違う。蛇姫様が百人分の食事をいちどに平らげたと聞いて、もう、幸福に打ち震えている。

ひと目見た瞬間から、お美しいと思っていた。その御方が、私の作った料理を口に運んで、咀嚼して嚥下して消化して、それが蛇姫様のどこか体の一部を形作ることになる。つまり、私が蛇姫様に迎え入れられることと同義だ。こんな、こんな喜ばしいことはない。例え直接彼女の食事風景を見られなくとも、蛇姫様が私の作った料理を、嗚呼。

だというのに。食い下がる様子の目の前の男を見遣る。この馬鹿は、私のその愛情表現に水を差そうとしているのだ。侵略者だ、重罪人だ。許せない。まだ何か喚いているらしい男の胸に、どん、と小瓶を叩き付ける。

「ウグッ…!」

「ごめんなさい、私に話しかける時は人語でお話してくれるかしら」

ぐり、と鳩尾に小瓶の蓋部分の装飾を押し付ける。乱暴に手首を掴まれて静止されるけれど、大して痛くない。彼と比べたら小柄な女ではあるが、私だって海兵の端くれだ。ちゃんと戦闘訓練を積んだわけではないのだけれど。そんな事より、もっと大きな問題がある。困惑した様子の男の顔を見詰めて、私はにこりと微笑んで言った。

「それと…貴方に食事は運ばせない、別の人にお願いするから、わざわざ蛇姫様の視界に入らなくていいのよ」

まあ、蛇姫様はこんな男の事なんて見ちゃいないでしょう。勿論、私のことも。けれどそれでいい。私は彼女の前に料理として現れて、その口付けをその身に受けているのだから。それにしても、あんな量の料理を平らげてあんなにお美しいのだから、蛇姫様ってすごいお方だと思う。








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