脳内辞典



【枯れる】
6



「すみません、最近探偵の仕事が忙しくて」

探偵も張り込みなんてやるんですよ。眉を下げて笑う透くんに、俺もつられて苦笑した。

彼の言葉通り、最近はデートに誘っても仕事が入っているとかで中々会えないことが多い。どうやら大きな事件絡みの仕事が入ったとか。探偵としては喜ばしい事なのだろうが、如何せん俺は彼とのプライベートの時間さえも削られてしまって、どうにも落ち着かない。

目の前のテーブルにコーヒーが置かれる。今日は依頼も入っていないと言って、家に招いてもらったのだった。冷蔵庫からお茶菓子が出てくる。美味しそうなケーキだ。

「ありがとう…でも、俺より事件優先してな」

「…でも、全然会えてないですし」

「いや、透くんが商売繁盛で何より!」

「しないほうがいいかもしれないですけどね…」

困ったように眉を下げて笑う透くん。そりゃそうだ。事件なんて起こらないほうがいい。もっともな言葉に苦笑して、ショートケーキに手を伸ばした。

そうして、暫く談笑を楽しんだ。久しぶりに俺の正面に落ち着いて座っている透くんは、ずっとニコニコしているが時折ふにゃ、と融けるように笑う。よかった。待ち合わせてからここに来るまでどことなく疲れている様子だったから、少しでも俺といて気が抜けているのなら、と思った所で、携帯が震えた。俺のではない、透くんのだ。

目を丸くした透くんがちら、と俺の様子を窺ったのを見て、促す意味で頷く。恐る恐る、といった様子で画面をのぞき込んだ透くん。次の瞬間、明らかにその表情が曇る。申し訳なさそうに視線を上げた彼が、どことなく泣きそうな声で言った。

「…依頼人からの、呼び出しです…」

「じゃあ俺帰ったほうが…」

「…すみません、埋め合わせはまた、必ず」

「ん、また今度な」

ソファの横に立て掛けておいた荷物を持って立ち上がる。食器を片付けようとしたら「僕がやりますよ」とやんわり制された。それなら、と任せて玄関に足を向ける。

「それでは、今度はぜひ僕から誘わせてください」

「おう、わかった」

にこ、と寂しそうに笑った透くんが、じ、と無言でこちらを見つめている。履いた靴のつま先をとんとん、と玄関のタイルに打ち付けて、俺も顔を上げた。まだ、俺の顔を見つめている。少し不思議に思ったが、兎に角その頬に手を添えると、僅かに戸惑ってから瞼がそっと降りた。思わずふ、と笑って顔を寄せて、少しだけ唇を寄せた。

「じゃ、気張ってな」

「はい…さよなら、ナマエさん」

踵を返して玄関から一歩外に出る。直前、視界に入った一つに、一瞬思考が止まった。いま、玄関の下駄箱の上に置いてある花瓶の花が、枯れていやしなかったろうか。あれ、と思って振り返る前に、ばたん、と扉が閉まった。さっきのは、いつか、俺があそこに活けた、ああ、あれは何の花だったろうか。珍しい、彼が枯れた花をそのままにしておくだなんて。

がたん、と扉の向こうで音がした。彼も突っ掛けのサンダルを履いていたから、もしかしたらスリッパに履き替える時に躓いたのだろうか。ちょっと見てみたい気もした。彼のそんな姿はなかなかレアだ。くす、と笑って、俺はそっとその扉に手を添えた。

「透くん、落ち着いたらまた連絡してや、待っとるから」

少しして部屋の中、思ったより近い所から「はい」とくぐもった声が返事をする。何となく足元近くから聞こえた気がするのは、もしかしたら転んだからだろうか。怪我がないといいけど。苦笑して、さて帰ろう、と俺は振り向いた。

透くんが大阪から姿を消したのは、この数日後の事だった。俺は、まだ彼からの連絡を待っている。






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