不可能なんかじゃない


  望みのない恋


目の前にはキャプテンの顔が広がって、ずるり、と生暖かいものが口の中に侵入してきた。まて、なんだこれは。自問自答をして、柔らかいそれがなにか理解した瞬間に、喉の奥から嘗てない量の花弁が湧き上がるように登ってくる。喉の奥から口内へ我先にと溢れる花弁に思わず胸辺りを掴んでキャプテンを力任せに押しのけて、膝から崩れ落ちて、這い蹲るようにむせ返った。

「う゛、え、げっほげっほ、ぉえ…っ!」

どういう事だ、なんで、キス?なんて。床に夥しい数の花弁を吐き出して青い絨毯が出来る。だがそんなことはどうでもいい。今の行動の意味を問い詰めようと顔を上げて、目を見開く。全身から血の気が引いた。

「…あんた、何してんですか…」

情けなく震える声は許してほしい。キャプテンがゆったりとした動きでおれの青い薔薇の花びらを、開いた口の舌の上からつまみ上げたからだ。一瞬流れるようなその動きに見とれるようにしながら、感情の追いつかない声でキャプテンを詰るように問いかける。

「…それが何だか、どうなるか分かってるんですか…」

キャプテンは、答えない。答える代わりのように表情の読めないその口元が刺青だらけの手で覆われた。細いけど筋肉質な背中が堪えるように丸められる。目の前の、信じられない光景に、夢でも見てる気分になった。

「…ぐっ、けほっ…」

花吐き病は、たとえ感染したとしても思い人がいなければ潜伏している。いつが誰かに焦がれることがあれば、その思いが花になって言葉の代わりに溢れる。おれが、キャプテンへの思いを口に出せない代わりに花びらを吐き出すように。

「…………うそ…だ…」

キャプテンの口元に当てられた指の隙間から、人の肌の色ではないものが見える。

「………うそ、だ」

胸元を抑えるように服を握りしめるキャプテンが、また背中を丸くして咳き込んだ。

「……うそだ」

ほろほろ、といくつかの黄色い花びらが零れ落ちる。

「…うそだ」

自分の声に絶望の色が濃くなっているのを、自覚した。

「キャプテン」

キャプテンが、死んでしまう。

「…ゲホッ、あァ、苦しいもんだな」

キャプテンの口から他人事のように零れた言葉が恋を指しているのか、それとも花弁がせり上がってくる苦しさを指しているのか、おれには分からなかった。ただ、キャプテンに恋い慕う人がいた事、キャプテンに命の危険が迫っていること、不可抗力とはいえキャプテンに病を感染してしまった事。色々な事が混ざり合っておれは眼の奥が熱くなるのを我慢出来なかった。

「…なに、泣いてんだ」

「…そりゃ、泣きますよ」

ぎゅ、と、花弁のせいだけではない締め付けるような痛みに、思わず胸のあたりの服を握りしめる。ぽろぽろと、床に敷き詰められた青いそれに涙が零れ落ちる。ふ、とキャプテンは自嘲じみた笑いを浮かべて、花弁を吐き出した濡れた唇を開いた。

「治す方法を見つけた、おれのことも、お前のこともだ」

「……っ、え」

その言葉に、反射的にキャプテンの顔を見上げる。この間まで絶対に他からの干渉で治す方法はないと言っていたのに、新しく見つかったのだろうか。そう思った。おれはこのあと船を降りるにせよ降りることを許してもらえないにせよ、キャプテンへの想いを押し殺して死んでいこうと思っていたから、もういい。それでも、キャプテンは、キャプテンには死んでほしくない。

そうだ、だからキャプテンは、もう既に治し方を見つけていたから、おれにキスなんてしたんだろう。自分も感染して、治し方が見つかったと、だからおれが船から降りる必要はないのだと示してくれたのだろう。

そうだ。キャプテンに…キスされたからって、自惚れるな、おれ。少しでもこの思いが報われると思ったなんて、とんだ愚か者だ。

しかし、見上げたキャプテンの表情は、全てを諦めたような表情で、掌の黄色い花弁を降らすように落とした。青い色に、鮮やかな黄色が混ざる。おれはその顔から目を離すことができずに、ただキャプテンが下手くそな作り笑いを浮かべるのを黙って見ている事しか出来なかった。

「……おれの事を好きになれ、イッカク」

黄色の大きい花びら、チューリップの花弁が、ひた、と軽い音を立ててキャプテンの足元に数枚落ちる。明るいその色が青と茶色の床に映えるのを、見開いた目で映した。




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