不可能なんかじゃない


  油断ならない


もうおれは、自分が吐いた花びら砂糖漬けでもして食ってればいいと思う。そんな究極のアホみたいな落ち込み方をするほど、おれはご傷心だった。咳き込み過ぎて、酒を飲み過ぎたみたいにガンガン痛む頭を揺らしながら、黄色い潜水艦を目指す。キャプテンだって男だし、今まで酒場の姉ちゃんとしけこむとか、そんな姿は何回も見てきた。同じ男だ、ぶっちゃけたまるもんはたまる。

おれも娼館でもいくかな、なんて無粋な考えが頭を過った。抱くなら、黒髪の女がいい。黒髪の、キャプテンみたいな勝ち気な目をした女がいい。そう思って、投げやりになって、また咳き込む。もうマスクにも収まりきらない量のバラの花びらが一枚溢れ出たのを、空中で握り潰す。死の外科医のクルーが、病原菌をばら撒いてたまるか。

使い物にならなくなったマスクを取って、被っていたニット帽を器みたいにして持つ。嘔吐物といえど酔って吐いたようなものではないから抵抗はない。ほとんど唾液もつくようなものではない。その量の花びらを吐いて、ああ、本当に拗らせてるんだな、と苦笑する。

キャプテンが好きだ。キャプテンマジいい男、イケメン。それだけじゃない、俺のクルーになれって言われた瞬間に、もう心まであの人のもんになっちまった。戦闘の時は格好良くて、それ以外の時は子供っぽいところもあって、寝顔は可愛くて、医療関係の時は賢くて、パンを目の前に差し出したらめちゃくちゃ嫌そうな顔する。クルーが体調崩したら付きっきりで看病する優しさも、怒ったらすぐに切り刻んでくるやんちゃなところも、誰も知らないだろうけど寝てる時に頭撫でたら擦り寄ってくる、その仕草も、全部。

「好きだなぁ」

言葉と同時に、青い花びらがこぼれ落ちる。不可能、知ってる。思いが溢れ出る度にその言葉を突きつけられているようで、追い打ちをかけられる心地だ。

この青い花びらは、どうやって処理しようか。このままここに捨てていったら誰かが触ってしまうかもしれない。それはダメだ。じゃあ船にでも持って帰って、袋に詰めておくか。燃やすにしても、生木と一緒で燃えにくいだろうから、乾かしてから燃やすのが一番いいかもしれない。そうだ、燃やそう。

何度も何度もえづきながら花びらを吐き散らして、やっと船までついた。見慣れた黄色い船だ。キャプテンはいない。きっとまだ外にいるだろう。

「ぅえ…かはっ…」

苦しい。苦しくてたまらない。あの人がどんな風に行きずりの女を抱くのか、本当に愛しい人には、どんな風な顔を見せるのか、それとも、男に抱かれるときは、どんな。ぞくり、と背中にえもしれない感情が走って、思わず身震いした。考えるな、キャプテンのことを考えれば考えるだけ苦しくなるのは、もう調べて知ってることだろう。

昼と同じように船の縁を登ることは出来ないので、思いっきり踏み切って甲板に降り立つ。だん、とまるで敵襲みたいな音がして、一人苦笑した。船内への扉をどうにかあけて、自分が普段居るべき部屋に足を向ける。ああ、酷く疲れた。さっさと風呂入って寝よう。そんな事を思いながら歩いていると、角から出てきた人物に正面からぶつかってしまった。

「っと、わり」

「うわあ、イッカクかあ、遅かったね」

「あ、ああ、ただいまベポ」

「うん、おかえりなさい」

とっさにニット帽を袋の口を閉めるように持って、中の花びらを隠した。危ない、見られるところだった。この白熊は見た目に反して油断ならないところがあるからいけない。いや、熊だから油断も何もないのだが。そのまま横を素通りして、何事もなかったかのように部屋に戻ろうとした。

「あ、そうだ、イッカクは今戻ってきたんだよね?」

「ん?ああ、そだよ」

「じゃあキャプテン見かけなかった?次の航路のことでちょっと相談があって」

ひくり、と笑顔を作っていた口の端が、引き攣ったのを感じた。ベポに他意はない。悪気もないのだ。ただ、キャプテンを見かけたかと聞かれたら返事はイエスである。しかも、ちょうど、見たくもない場面だ。

「ゲホッ、キャプテンなら、ぅ、今日は帰らないと思うぞ」

せり上がってくる圧迫感を押し殺して、ベポにそう答える。今の俺はとても情けない顔をしているだろう。ダメだ、出てくるな。ベポがそっかあ、と残念そうに声を上げた。

「じゃあ明日でいっかぁ、うん、ありがとう」

どうしたのイッカク、だいじょうぶ?ベポの優しい声が上から降ってくる。大丈夫だよ、と答えたい。答えなくてはいけないけど、もう苦しさは耐えきれるものではなかった。ぽんぽん、とむせ返る背中を撫でられる。ああ、優しいやつだ。人間より優しい。おれが風邪引いた時の、キャプテンの顔が頭にふと浮かんだ。

「ぐ…ゲホッ…うっ…」

「大丈夫だよ、落ち着いて…イッカク?」

とうとう耐え切れずに、おれの口から青い花びらがほろり、とこぼれ落ちた。ベポの背中を擦る肉球が止まり、白いふさふさした前足がゆっくりと。

「さわっ、ちゃダメだ!」

がっ、とその前足を掴むと、ベポの真ん丸い目泣きそうな目が、俺の目とかち合った。ああ、ほらみろ、油断ならない。

「イッカク、これは、どうしちゃったの…?」

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