運命に唾を吐け!
さよなら大好きだった兄上

あの日、父上に「食料を探しに行ったドフィを手伝ってきてくれ」と頼まれて家を出た先、町外れの港に停泊していた大きな船に興味を引かれてぼんやりと立ち尽くして眺めていた。大きな船だった。帆には大きく海軍のマークが描かれていて、海軍の軍艦であるということが一目でわかる。

その時の少し前までは、おれも海軍の船に乗って移動することが当たり前だった。父はいつも海兵たちに感謝の言葉を忘れなかったし、その時に既に亡くなっていた母もその辺りは父に倣っていた。そんな二人に育てられたおれも同じように海兵に言葉をかけたりしていたものの、兄は余り家族以外の人間と関わっていなかったように思える。と言っても他の天竜人のように彼らに辛く当たるようなことは無かったのだが。

おれ達はなにも悪いことをしていないのに、人間と歩み寄ろうとしてマリージョアを離れたのに。それなのにどうして迫害を受けなければならないのか、幼いおれにはそれが分からなかった。父と母の天竜人のなかでは真っ当な教育が、おれが人間と天竜人の確執を理解することを邪魔していたのだ。

ゆっくりと船を見上げる。カモメのマークとマリンの文字は、やはり見慣れたものだった。

「…どうした?」

後ろから声を掛けられて、思わずびくりと肩が跳ねる。弾かれたように振り返れば、おれの反応に驚いたのか目を丸くしている大きな海兵がいた。その姿を視界に映したおれの脳裏には、ある一言が浮かんだ。

また、殴られる。

「…!」

そう考えると、体が硬直したように動かなかった。喉が引き攣って、声も出ない。そうしている間にも、目の前の海兵はおれとの距離を詰めてくる。近づいてくるごとにその海兵の体の大きさを思い知らされて、ただただ怯える事しか出来なかった。

「迷子か?」

誰か、母上。母上はもういない。優しかった母上は、もう。

父上、父上は、嘆いてばかりいる。父上は非力だ。人を傷付けたことなんてない。たとえおれを助けてくれたとしても、父上が代わりに殴られ、そうして許しを乞う事しか出来ない。誰も助からない、父上は優しすぎる。

「…あ、あに、う」

兄上、兄上ならおれを助けてくれる。優しい兄上、おれが虐められていたら駆けつけてくれて、そいつらを追っ払ってくれる。おれの、おれだけの兄上だ。

兄上、助けて。そう叫ぼうとした瞬間、その海兵の大きな手が振り上げられた。思わず、ひ、と喉が引き攣り、声が出なくなる。振り下ろされる手に身を固くして、目を瞑って歯を食い縛る。怖い、殺される。助けて。そう頭の中で強く念じた。

「ん?何だ?兄貴とはぐれたのか?」

そう優しく声を掛けられて、それからおれの頭には大きな掌が乗せられた。それ以上の衝撃が何も来ないどころか、頭に乗せられた大きな掌がゆっくりとおれの髪を撫で付けて、そっと目を開いた。同時にほろり、と目から涙が零れ落ちる。

「ほら、泣くんじゃない…男だろう?」

黒髪を丸く整えた海兵。その眼鏡の奥の瞳は、随分と優しかった。緊張が解けて、肩から力が抜けた。「簡単に知らない人を信用するな」と兄上に怒られるかもしれないが、おれにはこの海兵、この人が悪い人だとはどうしても思えなかったのだ。

「う、うん、大丈夫」

まだ少し震えている声でそう答えて、おれはその人に事情を説明した。理由は伏せたが、わけあって追われていること。悪いことは何一つしていないこと。母上が病で亡くなったこと。父上と兄上と一緒に隠れ住んでいること。

「…そうか」

その人は、黙って話を聞いてくれた。神妙な面持ちをして、それから筋張った大きな温かい手が、おれの頭を撫でた。

「分かった、いきなり私が行っても警戒されるだろうから、家族をみんなここに連れてくるといい…もう大丈夫だ、海軍が責任を持って保護しよう」

最後に一言、「辛かったな」と言ったその人の言葉が、じんわりと胸に沁み込んでいくようだった。この人だったら、おれ達を受け入れてくれる。大丈夫だ。あれからあまり笑わなくなってしまった兄上も、自信を無くしてやつれてしまった父上も、きっと前のように戻ることが出来るかもしれない。母上の死を切っ掛けに壊れてしまった家族が、前のようにまた、笑い合うことが出来るかもしれないのだ。

おれはひとつ頷いて、それから弾かれたように走り出した。街を探していなかったのだから、兄上ももう仮住まいに戻っているのだろう。マリージョアでのような裕福な暮らしは出来なくても、これで父上が求めていた暮らしができる。慎ましやかな、人間の暮らしができる。兄上は全然今の暮らしの粗悪さがこたえていないようだったけど、それでも今よりずっと方の荷が降りることだろう。これからは家族みんなで、寄り添いあって暮らすことが出来るのだ。

だが、おれはその考えが甘くて、子供じみていたことをすぐに知る事になる。

「ただいまちちうえ、あにうえ!今ね、海兵の…」

走っているとすぐに隠れ住んでいる小屋が見えてきたので、ばん、と扉と言うには薄い小屋の入り口の戸を勢い良く開ける。早く家族にこの良い知らせを伝えたかったのだ。そうしたらきっと、前のように父上だって憂いのない笑顔でおれの頭をなでてくれるだろうし、兄上だって褒めてくれるだろう。しかし、目に飛び込んできた光景は、おれが想像していた景色とは違っていた。

「あ、…ろ、ロシー…?」

部屋は、異様な雰囲気に包まれていた。窓なんてない光の差し込まない部屋で、兄上が座り込んでいる。何ら不思議はないが、その手に握りしめられているものが明らかに異彩を放っていた。錆び付いた、ナイフだ。しかしナイフの錆は余りにも赤く、その先端からひとつ、またひとつと鮮やかな液体が滴っている。そうして、室内に立ち込める、鼻が曲がるような鉄の臭い。少し事態を理解しあぐねて、それから闇に慣れた目が兄上の背後、影の中に横たわる「もの」を映した。そうして、その光のない眼と視線が交わって、思わず喉を空気がひゅ、と通り抜けた。

そんなまさか、嘘だろう。

「あ、あ…ちちうえ…どうして…」

ざ、と勝手に足が後退する。震える声でその人の名前を呼んで、それから兄上を視界に入れた。

その表情は目が慣れたといえど影になっているのと、兄がいつも肌身離さずつけているサングラスで隠れていて良く見えない。それでもこの状況から見て、兄上の服に、顔に、そうして床にも飛び散った血液が、全てを物語っている。

そうだ、マリージョアを出る前から兄上は父上に反対していた。考えなおしてくれ、外では生きていけないって。父上はそれを半ば押し切る形で天竜人の立場を捨てた。ならば兄上が父上を恨んでいてもおかしくないのではないだろうか。「自分の忠告を聞かなかったから」と、そう思っても、おかしいことはないのではないだろうか。

そんな可能性にぞっと背中に悪寒が走った。それにしたって、どうして、どうして父上を手に掛けたりなんて。これからまた、みんなで幸せに暮らしていけると思ったのに。どうして、今なんだ。

「ちが、ロシー、これは」

「どうし、て…あ、あにうえの、人殺し!」

気が付いたら衝動に任せてそう叫んでいた。その声の多きさに驚いたのか、それとも普段大声を上げることなんてないおれが叫んだことに驚いたのか、兄上は座ったまま両手からナイフを取り落とした。その凶器が木の床に落ちてカラン、と軽い音を立てる。その音が合図だったようにおれはその場に背を向けて走りだした。

「ろ、ロシー、待っ…まってくれ…」

後ろから珍しく弱々しい兄上の声が追いかけてきたが、構わず走った。さっきの海兵がいるところまで、全力で。幼い身体はすぐに息が切れるけれどそんな事はどうでもいい。軍艦はそう遠くなかったのですぐに見える。

船の前に、あの海兵が立っていた。走ってくるおれを見つけて驚いて目を見開いている。それを視界に捉えて一瞬後ろを向く。兄上は、追いかけては来ない。

「どうした?家族は連れて来なかったのか?」

その言葉に少し口ごもる。母上は病に倒れて亡くなった。もういない。父上は兄上に殺されてしまった。もういない。兄上、兄上は。

そう考えた瞬間、両目頭がじん、と熱くなった。慌てて袖で拭うが間にあわない。ひぐ、としゃくりあげてしまって、もうそんな抵抗も意味のない事だった。

兄上はおかしくなってしまった。どうして、どうして父上を、もうたった三人になってしまった家族を手に掛けたりなんてしたんだろう。その思考が分からなくて、兄上の考えていることが分からなくて、寂しくて、何の変化にも気がつけなかった事が悔しくて、そうしてあとはただただ恐ろしかった。優しかった兄上は、兄上はもう。

「家族なんて…いない…!」

気が付いたら震える声でそう叫んでいた。きっとおれ達は幸せになれない。何度もそれを思い知った。兄上はおかしくなってしまった。もう、優しかった兄上は、いないのだ。おれは家族を失ってしまった。おれはもう、この世にたった一人なのだ。

何かを悟ったらしい海兵は、泣きじゃくるおれを力強く抱きしめてくれた。その温もりが、今は悲しかった。










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