さようなら愛しいすべてのもの
おれが全てを諦めた時の話をしようと思う。父の死。あれはもうこじつけでしかなかった。おれはこの時に運命という言葉を強く感じて恐怖すらした記憶がある。
母上が死んで、少し経った。父親は最近よく塞ぎ込んでいて生命活動すら疎かだ。あんなに希望を持ってマリージョアから降りてきた父親がゴミ箱から持ってきた生ごみやおれが盗んできた食糧を無気力な物乞いのように食べる姿を見るのは正直とても堪える。おれはいつものようにゴミ箱を漁り少しの食糧を持ち帰ってきた。
父親はいつか元気になってくれたらいい。そろそろこの場所を離れて誰もおれ達の事を知らない島に行こう。おれが連れて行こう。幼い弟と心を病んだ父、支えられるのはおれだけだ。母の墓をここに置いて行くのは気がかりだが、大人になったら何度でも来ればいい。ここに住んでもいい。そんなことを思いながら必死に自分を励まして家に入ると、丁度おれの目の高さに大人の足が揺れていた。
「…っ、ひ…!」
声にならない悲鳴を上げながらその場に尻餅をつく。あ、あ、なんて恐怖の余りに声を漏らしながら、そのぶら下がる身体を下からゆっくりと見上げた。瞬間に悟った。
おれが何をどう頑張ろうと未来は変わらないのではないか。どう足掻こうと、おれはドンキホーテ・ドフラミンゴではない。否、寧ろおれがドンキホーテ・ドフラミンゴだからこそ、この運命から逃れられないのではないだろうか。そうだ、だってこの現在は「原作」から見たら過去で、ドフラミンゴというキャラクターは主人公に相対する悪役だ。だったらその悪役が出来るまでの過程を、おれは歩まなくてはならないのだろう。
呆然と、世界全てに見捨てられた気持ちになって絶命している父親の顔から視線を落とす。と、足元に一枚、くしゃくしゃの紙が落ちているのを見つけた。どこかから拾ってきたのかほとんど紙屑のようにしか見えないが、それがこの場にあるのは不自然だったから、手を伸ばして拾い上げる。よれてこそいるがどうやらしっかり畳んだようで、おれはそっと破かないようにそれを開いた。走り書きのような字で、けれど見慣れた父親の字だった。
『私の首を切り落として、マリージョアに持って行きなさい。そうすればきっとお前達は受け入れてもらえる。』
「…ぁ、あぁ…」
口から、吐息のような声が漏れる。
『お前たちを、母さんをこんな目に遭わせて許されない事をしたのは分っている。それでも私はこの罪を償いたい。』
「あああ…ぁあ…」
喉が震えた。
『愛しているよ、私の大切な息子達。』
「ああああああああああああ!!!」
おれは、ボロの小屋から転がるように出た。
なにが、何が罪だ。何が償いだ。父は確かに無知だった。母は確かに弱かった。弟はまだ幼かった。おれは、無力だった。でもこれらは罪なのだろうか。ゴミ山に転がる刃の錆びたナイフの柄に手の甲がぶつかった。もう、やることなど一つだ。
ここで仮定が確信に変わった。おれはいくら運命に抗っても、どうせこの道を辿るしかないのだ。だったらもう運命に抗う意味なんてない。抗ってもどうせ、何も変わらない。失うべきものを失って泣き叫ぶくらいならもう最初から自分で切り捨てればいい。
頬を熱い涙が伝う。喉から勝手にしゃくりあげる音がする。ナイフを握り締めて小屋に戻ると、父親の首を吊るしているロープが天井の梁を通して別の柱の中腹に縛り付けてあるのが見えた。
ぼたぼたと溢れる涙で視界が揺らぐ。もう、どうでも良かった。どうでも。どうせおれはもう分かっているんだ。自分がこれからどうなるか。何を失うか分っている。だからもういい。諦めてしまおう。そうすればもう傷付かずに済む。これでよかった。おれは悪役だ。
ロープにナイフを突き立てる。刃こそ錆びているものの元々切れ味の良かったものらしく、ブチブチと音を立てながら繊維が千切れていく。暫くしてロープが三分の一程の細さになって、父親の体の重さで一気に引きちぎれた。ドスン、と死体が床に落下してぶつかる音がした。
それから父親を横たわらせて、切りやすいように顎の下と肩を足で踏んで固定する。もう、何も思わなかった。ただただ早く終わらせようと、それだけだった。きっとおれは父親の首を持ってマリージョアに行って殺されかけないとダメなんだ。ナイフをしっかり両手で握りしめる。手どころか体全体が震えた。
「う、うあああぁ…っ!」
ブツ、と肉を断つ嫌な音。ナイフの切っ先が埋もれていく感触。吐き気をもよおして身をよじってその場に吐いた。苦しくて悲しくてボロボロと涙がこぼれ落ちる。小屋の中には死臭が立ち込めている。鉄錆の臭いに鼻は既に麻痺している。悲鳴を押さえることも忘れてナイフを持った手を必死に動かす。
ボリボリと骨を砕く音がする。手にもその感触が伝わってくる。もう、とうに腰など抜けていて足で抑えていた首もグリグリと勝手に動いていた。
「ただいまちちうえ、あにうえ!今ね、海兵の…」
ばん、と扉と言うには薄い小屋の入り口の戸が開く。入ってきた人物に全身の血の気が引いて弾かれたようにそちらを向けば、扉を開けたままの格好で弟が硬直していた。
「あ、…ろ、ロシー…?」
父の死体と首は、まだ首の皮一枚つながっている。おれは血だらけの両手とナイフを見比べて弟を見詰めた。気付いたら、身体全体に血が跳ねてぐっしょりと赤く濡れている。いけない。これはまずい。弟の表情が引き攣ってそれがどんどん恐怖に染まっていく。目が離せない。犬のように早くなっていく呼吸に過呼吸かと思い近付こうと床に手をつくが、手が震えて力が入らない。
「あ、あ…ちちうえ…どうして…」
ざ、と弟が後退る。震える声で死体の名前を呼んで、それからおれを視界に移して前髪の奥の目を見開いた。
「ちが、ロシー、これは」
「どうし、て…あ、あにうえの、人殺し!」
そんな金切り声が、おれを刺した。その衝撃に呼吸が止まって弁解の言葉も紡げない。ただただ目を見開いて、力の抜けた両手からナイフを取り落とした。木の床に落ちてカラン、と軽い音を立てる。その音が合図だったように弟はおれに背を向けて走りだした。
「ろ、ロシー、待っ…まってくれ…」
震える声で手を伸ばしても、弟は振り向かずに走って行ってしまった。また一つおれの手から大切な物が零れ落ちて、おれは弟の背中に伸ばした手を、そっと引っ込めた。
おれがいくら頑張ったってなにもどうにもならない。運命は変わらない。何度もそれを思い知った。もう今度からは要らない希望に縋ったりしない。これで良かったんだ。これで。
おれはぼうっとした頭で父親の少しだけ繋がった首の皮にナイフを突き立てた。
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